渡辺芳則

渡辺芳則(わたなべ よしのり、渡邉芳則 1941年1月8日-2012年12月1日)は日本の元ヤクザ。指定暴力団・五代目山口組組長。

略歴

  • 栃木県下都賀郡壬生町出身であり、実家は農業を営んでおり、親兄弟にも恵まれ裕福な家庭で育った。
  • 浅草を中心に活動していた。もとは全日本飯島連合会系に所属していた。三代目山口組山健組幹部と親交があり神戸に移住。
  • 1961年、山健組組長・山本健一から盃を受け、山健組に加入。
  • 1965年、山健組舎弟頭・田中達男より、山健組を破門。
    同年、山本健一より破門が解かれた。
  • 1969年、山健組若頭に就任。
  • 1982年2月4日、山口組三代目・田岡一雄の跡を継いで、四代目を継承すると見られていた山本健一若頭が急死。山健組の二代目を継承。
    同年6月、三代目山口組若中に昇格。
  • 1984年6月、竹中正久を組長とする四代目山口組発足に伴い若頭補佐に昇格。
    跡目問題に反発した山広派は山口組を脱退、「一和会」を結成し山一抗争へと発展。
  • 1985年1月、竹中正久四代目と、若頭の中山勝正豪友会会長)が一和会・二代目山広組系組員に暗殺される。
    同年2月、暫定執行部体制で山口組若頭に就任。
  • 1989年3月、山一抗争が終結。
    同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。
    同年4月27日、五代目山口組組長に就任。
    同年7月21日、五代目継承盃を挙行する。
    組長在任中は若頭・宅見勝らの方針もあり警察との対立を避け、ブロック制導入などの合理化・統制化を勧め拡大路線を推進し続けた。
  • 1996年9月26日、熱海の稲川会本家にて、稲川会三代目会長・稲川裕紘と五分の兄弟縁組が執り行われた。
  • 2004年11月、山口組傘下組員が起こした不法行為に対する使用者責任を認定した最高裁判決を受けると、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲。
  • 2005年、体調不良により引退。
  • 晩年は、インターフェロンによる副作用で、認知症を発症していたという。
  • 2012年12月1日、兵庫県神戸市中央区の自宅で死去。71歳没。

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