平井亀吉(ひらいのかめきち)、通称風雲亀吉(ふううんかめきち)、本名大林亀吉は幕末から明治時代にかけての侠客・博徒。平井一家初代または二代目。清水一家の清水次郎長と争った。
- 文政11年(1829年)三河国宝飯郡平井村(現在の愛知県豊川市平井町付近)に生まれる。
- 博徒となる前は江戸大相撲の清見潟部屋の力士で、四股名を風雲又は風雲の藤八と名乗った。
- 力士廃業後、東三河を縄張りとする博徒小中山七五三蔵(こなかやまのしめぞう、小川注連蔵、小川七五三蔵とも)の子分となり平井一家の跡目を継いだ。当初平井一家の初代は七五三蔵であり、その跡目の亀吉が二代目であったが、現在の系譜は亀吉が初代とされている。東海道の宿場御油宿・赤坂宿を主な縄張りとした。
- 亀吉は甲斐国八代郡上黒駒村(現在の山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の博徒黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう、本名小池勝蔵)と兄弟分となり、勝蔵が駿河国有渡郡清水町の清水次郎長(しみずのじろちょう、本名山本長五郎、清水一家初代)と対立していたため亀吉も次郎長と何度も争った。
- 元治元年(1864年)、勝蔵が平井村の亀吉の所に逗留していたところ、清水一家に幡豆郡寺津村(現在の西尾市寺津町)の寺津間之助(てらづのまのすけ、本名藤村甚助、寺津一家二代目)、幡豆郡吉良村(現在の西尾市吉良町)の吉良仁吉(きらのにきち、本名太田仁吉、寺津一家三代目、後の吉良一家初代)、宝飯郡形原村(現在の蒲郡市形原町)の形原斧八(かたのはらのおとはち、本名市川斧八、形原一家初代)ら次郎長と協力関係にある勢力を加えた34名に襲撃され、亀吉と勝蔵の子分6人が殺害された。
- 同年、報復として亀吉の末弟善六が形原斧八を襲撃し子分7人を殺害した。
- 慶応2年(1866年)、伊勢国河曲郡神戸町の神戸長吉(かんべのながきち、本名初芝才次郎、伊勢神戸一家初代)と伊勢国員弁郡穴太村の穴太徳次郎(あのうとくじろう、本名・中野徳二郎、穴太徳、安濃徳とも)が争った荒神山の喧嘩には長吉側に次郎長や仁吉の勢力、徳次郎側に亀吉や勝蔵の勢力がそれぞれ加勢した。
- 慶應4年(1868年)、戊辰戦争(北越戦争)に従軍した後、士族に登用された。ともに従軍した博徒に尾張国愛知郡北熊村出身で東春日井郡水野村の吉五郎一家の跡目近藤實左衛門(後の北熊一家初代)がいた。
- 明治維新後、平民に戻された亀吉は名古屋に移り住んだ。
- 亀吉が名古屋に居る間一家は亀吉の末弟善六が預かっていたが、縄張りは他の一家に荒らされ、善六は次郎長につながる形原斧八の刺客に殺害された。
- 亀吉の次弟下地常吉(しもぢのつねきち、本名原田常吉、後の平井一家二代目)が流罪から戻り形原一家へ報復し一家を再興した。
- 常吉が亀吉の跡目を継ぐが、以降も亀吉は平井一家に影響力を持っていた。
- 平井一家と清水一家は信濃国下高井郡中野村(現在の長野県中野市)の間ノ川一家(間川又五郎一家)の二代目相川平三?(まのかわのへいぞう、斎藤平三)が仲裁し和解した。
- 明治13年(1880年)6月15日、浜松宿の料亭島屋で盛大な手打ち式が行われた。亀吉は手打ち式には参加しなかった。
- 晩年は宝飯郡下佐脇村(現在の豊川市御津町下佐脇付近)に住んだ。
- 明治26年(1893年)3月24日死去。66歳没。