吉良仁吉

吉良仁吉(きらの にきち 本名・太田仁吉、1839年(天保10年)1月1日-1866年5月22日(慶応2年4月8日)は幕末の侠客、博徒。寺津一家三代目。吉良一家初代。清水次郎長の弟分。

略歴

  • 三河国幡豆郡吉良村(現在の西尾市吉良町)の博徒。
  • 天保10年)1月1日、三州吉良横須賀御坊屋敷内に太田善兵衛の長男として生まれる。
    祖父・太田佐治兵衛は江戸の武士であったが故あって浪人となり吉良に流れ着き、源徳寺の寺男となる。
  • 別説では吉良村横須賀に没落武士の子として生まれた。または三河国上横須賀村栄の百姓太田善兵衛の長男とされる。または天保10年11月1日、吉良町横須賀の太田善兵衛の伜に生まれ、郷土史談『荒神山』に、仁吉は草相撲の力士で四股名を『吉良錦』といったとある。
  • 身長六尺近く、体重二十四貫の大男で、横笛を好みよく近くの矢作古川で一人笛を吹くこともあった。
  • 性来無口で丸顔、だんまり地蔵の仇名があった。
  • 相撲が強く草相撲の大関であったと伝わる。
  • 若くして両親を亡くし、相撲で勝ったため喧嘩となり、寺津間之助の世話になる。後に間之助の子分となる。
  • 無口だが腕っ節と相撲が強く、相撲の上での喧嘩で博徒の親分の寺津間之助に匿われたのがきっかけとなり、18歳から3年間を清水次郎長の下で過ごした。次郎長と兄弟の盃まで交わす仲となった後、吉良に帰り26歳の頃吉良一家を興し、西三河一帯の縄張りを預かる。
    万延元年(1860年)頃清水ノ治郎長の処に草鞋を脱ぎ、三年間位修行し、吉良に帰って来て、若くて親分となる。
  • 伊勢国員弁郡穴太村の博徒・穴太徳次郎が、清水次郎長が世話をした伊勢国河曲郡神戸(現在の鈴鹿市神戸)もしくは伊勢国安濃郡神戸(現在の津市神戸)の博徒・神戸長吉の縄張りであった荒神山を奪ったため、神戸長吉に加勢して戦った。
    仁吉の妻は穴太徳次郎の妹であったが、妻を離縁した。
    この決闘は荒神山の喧嘩と言われ、神戸長吉側は勝利を収めたが、吉良仁吉は鉄砲で撃たれた上、角井門之助に斬られて死亡した。享年28。
  • 慶応2年4月8日歿。行年28歳。
  • 墓は西尾市の源徳寺にある。清水次郎長が仁吉を偲んで建てた。吉良仁吉の勇名にあやかろうと墓石を削って持ち帰る人が多かったことから、代わりに墓石の欠片が必勝かち勝石(かちかちいし)として売られている。
  • 荒神山に吉良仁吉碑がある。昭和26年3月 廣澤虎造 建之、世話人 名古屋 上條義夫、亀山 倉田三造、四日市 寺村孝三?とある。広沢虎造は浪曲師。


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