平野家一家
九代目平野家一家(ひらのやいっか)は愛知県名古屋市中区新栄3-23-23平野総業に本部を置く暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の三次団体。上部団体は三代目弘道会。旧・本願寺一家平野屋、平野屋一家。
略歴
- 祖・近藤太助は本願寺一家初代・本願寺源左衛門の子分であり跡目を受けたとも伝えられる。
- 本願寺源左衛門亡き後、近藤太助が本願寺源左衛門の縄張りで賭場を開帳していた。
- 明治10年頃、近藤太助の子分・平野屋末吉が跡目を相続し平野屋一家を名乗る。
- 平野屋末吉は大親分となり名古屋に大勢力を築いた。
- 平野屋末吉の有力な子分は出井源次郎?、お化けの弥助こと早川弥助?、おかめこと永田亀吉(広瀬亀吉)、金松、ぎんなんこと伊藤銀次郎、葡萄棚ノ由らがいた。出井源次郎?、早川弥助?、永田亀吉、金松は四天王と称された。
- 明治16、17年、警察大刈込により衰退した。
- 明治17年または18年、平野屋末吉が引退。出井源次郎?が二代目を継承。平野屋末吉は80余歳にして死去。
早川弥助、永田亀吉、伊藤銀次郎らは各一派を興した。
- 明治24、25年頃、次第に勢力を取り戻した。
- 出井源次郎?の有力な子分は白玉こと馬場鍵次郎、内藤捨吉、横井文太郎(横井丈太郎)、木村藤兵衛、別当竹、水谷初次郎(水谷初太郎)、吉川悦太郎、加藤健次(加藤鍵次)、鍋安らがおり、舎弟は近藤弥三郎、畳屋兼こと村上条吉、栗田条右衛門、葡萄棚ノ由、志知万次郎、世話内に辻銀または辻銀次郎こと水谷銀次郎がいた。
- 明治34年頃、馬場鍵次郎が三代目を継承。出井源次郎は隠退し大正5年頃死去。
志知万次郎と水谷銀次郎は後に一派を興した。
- 馬場鍵次郎は身内を以て鍛冶屋町派と称した。
- 馬場鍵次郎は元宮角力にして通称を白玉、白玉鍵次郎といった。この頃が平野屋一家の最盛期となる。
- 有力な子分は加藤吉松(明治7年生)、チビ市こと阿部市太郎(慶応3年生)、一柳鉄次郎、グチュ庄こと長谷川庄次郎、玄海ノ浅五郎こと古川浅吉がおり、舎弟に福田吉五郎こと福田吉太郎、世話内に留次郎こと古川留吉、新蝶こと今井安吉(明治12年生)、大久保こと佐藤徳次郎、前津九蔵こと岡村末吉(明治5年生)がいた。
- 大正元年、馬場鍵次郎が隠退。子分は各一派を立てて勢力伯仲していたため、無理に跡目を決めれば一家分裂の恐れあるとして、加藤吉松に跡目を預け、佐藤徳次郎と今井安吉を後見人とした。
しかし佐藤徳次郎は死亡し、加藤吉松は昭和2年に自身の費場所を山田松次郎(明治16年生)に譲って平野屋の跡目を今井安吉に預けて隠退した。馬場鍵次郎は大正6年10月に死去。
- 1986年、平野家一家、稲葉地一家、瀬戸一家、運命共同会、導友会が、反山口組同盟として親睦団体「中京五社会」を結成。
- 1991年、瀬戸一家と運命共同会の中核組織・平井一家が山口組に加入。中京五社会は瓦解した。
- 1991年以降、平野家一家は弘道会に加入した。
平野家一家系譜
整理前
祖 - 近藤太助
初 代 - 平野屋末吉
二代目 - 出井源次郎
三代目 - 馬場鍵次郎
四代目 - 加藤吉松
五代目 - 山田松次郎
六代目 - 石塚士計巳
七代目 - 佐藤安吉
八代目 - 浅岡喬治
九代目 - 土井藤門
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整理後
祖 - 近藤太助
初 代 - 平野屋末吉
二代目 - 出井源次郎
三代目 - 馬場鍵次郎
四代目 - 石塚士計巳
五代目 - 佐藤安吉
六代目 - 浅岡喬治
七代目 - 土井藤門
八代目 - 中島 護
九代目 - 山本準人
九代目平野家一家組織図
総 長 - 山本準人(三代目弘道会若中)
総長代行 - 吉田 浩(二代目田中興業組長)
若 頭 - 川端直人
舎弟頭 - 枝本泰明(枝本組組長)
過去の組織図
平野家一家組織図(昭和54年)?
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