溝下秀男
溝下 秀男(みぞした ひでお、1946年-2008年7月1日)は、日本のヤクザ・御大。指定暴力団・三代目工藤會会長。四代目工藤會総裁同代ならびに名誉顧問極政会初代会長。
略歴
- 1946年(昭和21年)、福岡県嘉穂郡頴田村(現・飯塚市)出身。
- 1962年(昭和37年)、福岡県北九州門司を本拠にしていた愚連隊である 大長健一の若い衆となった。
- 1965年(昭和43年)、拘留中の溝下秀男は、40日間の絶食で拘留執行停止を受けた。同年夏、何喰わぬ顔で大長健一宅を訪問し周囲を驚愕させた。この頃から本格的に部屋住みで修行している。
- 1970年(昭和45年)9月20日午前0時すぎ、大長健一が土谷組幹部・土谷誠に刺身包丁で刺され、出血多量で死亡した。
- 同年、溝下秀男が24歳で愚連隊・「溝下組」を結成。
- 1978年12月、草野一家田川支部長・天野義孝と、愚連隊・「溝下組を率いていた溝下秀男が盃を交わし、草野一家に加入。
- 1979年9月、溝下秀男が草野高明の舎弟となり、組織名称を「溝下組」から「極政会」へと名称を変更。
溝下秀男は草野一家の勢力拡の大きな原動力となり、のちに草野一家若頭となる。
- 1986年末頃、福岡市を中心に山口組と道仁会の抗争、いわゆる「山道抗争」が勃発。
福岡市は山口組・伊豆組が拠点を置いていたが、そこに筑後地区を地盤とする道仁会が進出の機会を狙い衝突した。
この山道抗争において、当時謹慎中の溝下秀男は、草野一家総長・草野高明と太州会会長・太田州春の意向を受けて和平工作に奔走、自ら山口組・伊豆組と道仁会の双方に掛け合い、調停に尽力したことから、山道抗争終結の功労者と言われている。
- 1987年6月、草野一家と工藤会は抗争を重ねたが、恩讐を超えて大同団結し再統合、名称を「工藤連合草野一家」と改めた。
工藤玄治が総裁に、草野高明が総長に就任。
新井秀夫(草野一家総長代行)、溝下秀男(草野一家若頭)、本部長・野村悟(工藤会理事長)など、草野一家が重要ポストを占め、代紋は草野一家のものを使用した。
工藤会9団体206名、草野一家26団体628名の合計35団体、834名という九州一の大組織が誕生した。
- 1990年、溝下秀男は工藤會の三代目を襲名。極政組二代目を江藤允政が継承。
- 2000年、工藤會四代目を野村悟に禅譲した。
- 2008年7月1日、北九州市内の病院で死去。享年61歳。
- 幼少は非常に極貧生活を強いられ、小学生から炭鉱で石炭を拾い集め、それを売却し妹の面倒を見ていたという。
その時代に妹に買ってあげたハーモニカを、大切に保管していると取材で明らかにしていた。
- 「極道一番搾り」や「愛嬌一本締め」などの自著を世に出したことからも知られた。
- 趣味が多彩であり、ペット「通称・溝下動物園」(爬虫類・アルビノニシキヘビ) 、パソコン、執筆書物、写真家、登山、楽器、マリンジェット、ウォーキング、オフロードなどである。
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