光京家一家
四代目光京家一家(こうきょうやいっか)は栃木県佐野市に本部を置く暴力団で、指定暴力団・住吉会の二次団体。四代目親和会加盟。
略歴
光古家一家
- 光古家一家(または光具屋一家)は江戸時代に大前田英五郎とも親交があった博徒の香具屋一家貸元・光古家弥吉を初代とし、山宮国吉、石田竹次郎と継承されてきた。
- 大町利市が、光古家一家の四代目を継承。
- 大町利市は高知から西日本を渡り歩き、横浜、東京と流れて栃木に入り、足利、桐生そして太田に落ち着いた。若い頃は賭場荒らしもしていた豪傑な人物でもあった。
戦後は足利競馬場の警備を任されたり、市議会議員まで務めた。
京屋一家
- 京屋一家は江戸時代に大前田英五郎の舎弟であり十手持ちでもあった京屋銀造を祖とし、岡田喜久治、堀江寅松と継承されて来たが衰退していた。
- 光古家の大町利市は、自分の舎弟であった鴇崎文造(ときざき ぶんぞう)を京屋一家の四代目に据えた。
- 鴇崎文造が京屋一家四代目継承から2年後に突然の引退。
- 1957年、遠藤幸雄が京屋一家五代目を継承。
- 遠藤幸雄は1930年、佐野市の糸問屋に生まれ、若い頃は弁護士を目指して旧制中学から明治大学法学部へ進学したが、事件を起こして宇都宮刑務所で5年刑期を務めた。
- 出所後、大町利市に渡世入りを誘われるが断り、愚連隊時分から兄貴分と慕っていた東毛の鬼こと鴇崎文造の元へ行く。
- これにより、遠藤幸雄は本格的な渡世入りとなり京屋一家の若い衆となり代貸となった。
光古家一家と京屋一家の合併
- 1964年、博徒一家の連合体である親和会が結成。
- 1972年、大町利市は遠藤幸雄に光古家一家と京屋一家の合併を提案。これにより佐野市に本拠を置く光京一家が誕生。大町利市が初代に就任。
- 1984年、大町利市が亡くなると、遠藤幸雄が二代目を継承。また親和会の常任顧問に就任した。
- 2003年4月19日、親和会と弘道会との北関東抗争で、群馬県大泉町で光京睦会幹部・西田組組長・西田孝雄が組事務所駐車場で車から降りたところを射殺された。
- 同年5月5日午後2時55分頃、光京睦会本部事務所で特別相談役・野沢昇平と、光京睦会・鈴木組組員・渡辺利敬が正面玄関から侵入した男に銃撃され2人とも病院に運ばれたが死亡した。
北関東抗争を参照。
三代目・野澤文男
系譜
初 代 - 大町利市(住吉連合名誉顧問)
二代目 - 遠藤幸雄(住吉連合会常任顧問)
三代目 - 野澤文男(住吉会懲罰委員長・二代目光京睦会会長)
四代目 - 大塚 尚
四代目光京家一家組織図
総 長 - 大塚 尚(住吉会会長補佐・四代目親和会理事長補佐)
代 行 - 柴田光男(住吉会副会長・親和会会長付・田沼・葛生貸元)
理事長 - 柳田政弘(住吉会副会長・親和会幹部・足利市中央地区貸元)
本部長 - 安部宗幸(住吉会副会長・親和会会長補佐)
検索用
光京家一家、光京一家、光京屋一家、光京家睦会、光京睦会
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