奥浦清司
奥浦 清司(おくうら せいじ、本名・金哲清(キム・チョルチョン)、1943年12月17日- )は、指定暴力団・神戸山口組元顧問、奥浦組元組長。元六代目山口組若中。
略歴
- 1943年(昭和18年)、共に教職員だった九州出身の両親の間に、旧枚岡市(現・東大阪市)で長男として生まれた。
16、17歳の頃、母親が40代の若さで病死。それをきっかけに、不良の道を歩み始める。
- 27歳で菅谷組の系列組織として奥浦組を旗揚げ、飛田新地に事務所を構えた。
- 旗揚げから2年後、菅谷組若中となる。
- 1977年(昭和52年)、菅谷組組長・菅谷政雄が絶縁となる。
- 1981年(昭和56年)、菅谷組が解散。
奥浦清司は三代目山口組若中長谷組組長・長谷一雄(引退)の舎弟として、山口組に復帰。
長谷組では「奥浦聯合」を率い、東大阪を中心に勢力を拡大。
- 1989年(平成元年)6月、渡辺芳則組長の五代目山口組体制が発足、長谷組から山口組若中に昇格。
当時の奥浦組は組員数560人を誇った。
- 2015年(平成27年)8月、六代目山口組が分裂。
奥浦清司は神戸山口組顧問として脱退メンバーに名を連ねた。
- 三代目山口組組長・田岡一雄が初めて作った綱領の「国家社会の興隆に貢献せんことを期す」と記された教えを守り、「我々の社会の原点は、地域を安定させること。国家無くして組織無し。ヤクザの世界も、国がないと存在せんからね」と、地元の町会などからは幾度も感謝状を送られ、親分として親しまれてきた。
奥浦清司の個人名で送られた挨拶状には「今後は現在の国体を危惧し憂い、愛国心を以って国家社会の為に今何をすべきかを考え、行動して参る所存で御座居ますれば」と記されていた。
- 2021年(令和3年)4月、奥浦清司が引退。奥浦組は解散。
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