明友会事件
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* 明友会事件 [#u5041dd2] ''明友会事件''(めいゆうかいじけん)は、1960年8月9日から同年8月23日までに起こった三代目[[山口組]]と[[明友会]]の抗争事件。[[山口組]]の大阪進出の足がかりとなった。 ** 抗争勃発 [#vd52bf3b] -1960年7月、三代目[[山口組]]と[[明友会]]の最初の衝突は、大阪ミナミで双方の組員が喧嘩となり、さらに[[明友会]]側が猟銃を持って車に乗り込み、神戸市の[[山口組]]事務所前で示威行動をとったことに端を発する。 -同年8月5日、[[山口組]]・富士会会長・[[田中録春]]がマンモスキャバレー「キング」を開店。 -同月9日、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が「キング」の開店祝いに来店し、歌手・田端義夫がゲスト出演した。 -[[田岡一雄]]は田端義夫を労うため、舎弟の[[織田組]]組長・[[織田譲二]]の運転する車で、田端義夫とボディガードの中川組組長・[[中川猪三郎]]を連れて、大阪ミナミのサパークラブ「青い城」に向かった。 -そのころ「青い城」では[[明友会]]会員4人が、[[明友会]]幹部・宋福泰と韓博英の保釈祝いをしていた。 -[[田岡一雄]]ら一行がテーブルに着くと、宋福泰と韓博英が歌手・田端義夫に気づき、この場で歌ってくれる様頼んだが、中川猪三郎が田端義夫は三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]と共に、客として来店していると説明し依頼を拒否、[[明友会]]会員の1人が中川猪三郎をビール瓶で殴打した。車を駐車してきた[[織田譲二]]が合流し、[[明友会]]会員と喧嘩になったが、[[明友会]]側の6人は「いつでも来い。相手になってやる」と言い残して「青い城」から立ち去った。 -[[田岡一雄]]は[[明友会]]との抗争を決断し、総指揮官として若頭・[[地道行雄]]を任命。[[地道行雄]]の号令一下、[[山口組]]各団体に動員令が発せられた。 -同月10日、「青い城」での報告を受けた[[明友会]]会長・[[姜昌興>甲山五郎]]は、西宮市の[[諏訪組>諏訪一家]]組長・諏訪建次に[[山口組]]との仲介を依頼した。 ** 抗争の推移 [#f09a96f9] -1960年8月10日、[[山口組]]は大阪市東淀川区十三西之町の旅館を作戦本部とし、若頭補佐・[[山本広]]らも集まって作戦会議を開いた。 作戦会議中に、諏訪建次から「[[姜昌興>甲山五郎]]が詫びを入れてきているので、自分に仲裁を任せて欲しい」との申し出があったが、[[山本広]]は諏訪建次の申し出を拒否した。 -同日夕方、[[桂木正夫]]、[[中川組]]組員・市川芳正、[[安原会]]組員・佐野晴義、[[地道組>佐々木組(一和会)]]組員・[[福田留吉]]、[[石井組]]組員・[[平尾国人]]など、総勢約50人全員が拳銃を所持し、前線本部の大阪市南区炭屋町の旅館に集結した。 -同月12日午前8時、[[山口組]]側が、大阪市西成区西荻町のアパート「清美荘」にいた[[明友会]]幹部・李猛を部屋を包囲。 李猛は自室のドアにバリケードを築いて立てこもったが、中川組幹部・[[正路正雄]](のちの三代目[[山口組]]若頭補佐)が窓越しに李猛を銃撃し腹部に重傷を負わせた。 -同月19日夜、[[明友会]]幹部・宋福泰と韓博英ら6人が、大阪市南区河原町で[[加茂田組]]組員・前川弘美ら3人を拉致、布施市足代のアパート「有楽荘」に連行しリンチを加えた。 これを聞いた[[姜昌興>甲山五郎]]は、宋福泰と韓博英らに拉致した3人の解放を指示。20日午前0時頃、拉致された前川弘美ら3人は[[加茂田組]]事務所に戻った。 -[[加茂田組]]組長・[[加茂田重政]]は組員と武器を集め、事態の急変を察知した西成警察署の包囲をすり抜け南区大和町に集結。 -同月20日午前6時、[[加茂田重政]]と[[加茂田組]]組員15人で「有楽荘」を襲撃し[[明友会]]組員・山岸襄を射殺、李義雄の肩を斬って重傷を負わせた。 ** 抗争の終結 [#xf092bf8] -1960年8月21日、[[明友会]]会長・[[姜昌興>甲山五郎]]以下、[[明友会]]幹部15人が指を詰めた。 -同月23日、箕面市の「箕面観光ホテル」で別府市の[[石井組>石井一家]]組長・[[石井一郎]]が仲裁人となり、[[山口組]]と[[明友会]]の手打ち式が行われた。 名目的には手打ちだったものの、[[山口組]]の猛攻の前に僅か2週間たらずで[[明友会]]側が幹部15人の断指した指を持参するなど、実質的に[[明友会]]側の全面降伏に等しかった。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~
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* 明友会事件 [#u5041dd2] ''明友会事件''(めいゆうかいじけん)は、1960年8月9日から同年8月23日までに起こった三代目[[山口組]]と[[明友会]]の抗争事件。[[山口組]]の大阪進出の足がかりとなった。 ** 抗争勃発 [#vd52bf3b] -1960年7月、三代目[[山口組]]と[[明友会]]の最初の衝突は、大阪ミナミで双方の組員が喧嘩となり、さらに[[明友会]]側が猟銃を持って車に乗り込み、神戸市の[[山口組]]事務所前で示威行動をとったことに端を発する。 -同年8月5日、[[山口組]]・富士会会長・[[田中録春]]がマンモスキャバレー「キング」を開店。 -同月9日、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が「キング」の開店祝いに来店し、歌手・田端義夫がゲスト出演した。 -[[田岡一雄]]は田端義夫を労うため、舎弟の[[織田組]]組長・[[織田譲二]]の運転する車で、田端義夫とボディガードの中川組組長・[[中川猪三郎]]を連れて、大阪ミナミのサパークラブ「青い城」に向かった。 -そのころ「青い城」では[[明友会]]会員4人が、[[明友会]]幹部・宋福泰と韓博英の保釈祝いをしていた。 -[[田岡一雄]]ら一行がテーブルに着くと、宋福泰と韓博英が歌手・田端義夫に気づき、この場で歌ってくれる様頼んだが、中川猪三郎が田端義夫は三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]と共に、客として来店していると説明し依頼を拒否、[[明友会]]会員の1人が中川猪三郎をビール瓶で殴打した。車を駐車してきた[[織田譲二]]が合流し、[[明友会]]会員と喧嘩になったが、[[明友会]]側の6人は「いつでも来い。相手になってやる」と言い残して「青い城」から立ち去った。 -[[田岡一雄]]は[[明友会]]との抗争を決断し、総指揮官として若頭・[[地道行雄]]を任命。[[地道行雄]]の号令一下、[[山口組]]各団体に動員令が発せられた。 -同月10日、「青い城」での報告を受けた[[明友会]]会長・[[姜昌興>甲山五郎]]は、西宮市の[[諏訪組>諏訪一家]]組長・諏訪建次に[[山口組]]との仲介を依頼した。 ** 抗争の推移 [#f09a96f9] -1960年8月10日、[[山口組]]は大阪市東淀川区十三西之町の旅館を作戦本部とし、若頭補佐・[[山本広]]らも集まって作戦会議を開いた。 作戦会議中に、諏訪建次から「[[姜昌興>甲山五郎]]が詫びを入れてきているので、自分に仲裁を任せて欲しい」との申し出があったが、[[山本広]]は諏訪建次の申し出を拒否した。 -同日夕方、[[桂木正夫]]、[[中川組]]組員・市川芳正、[[安原会]]組員・佐野晴義、[[地道組>佐々木組(一和会)]]組員・[[福田留吉]]、[[石井組]]組員・[[平尾国人]]など、総勢約50人全員が拳銃を所持し、前線本部の大阪市南区炭屋町の旅館に集結した。 -同月12日午前8時、[[山口組]]側が、大阪市西成区西荻町のアパート「清美荘」にいた[[明友会]]幹部・李猛を部屋を包囲。 李猛は自室のドアにバリケードを築いて立てこもったが、中川組幹部・[[正路正雄]](のちの三代目[[山口組]]若頭補佐)が窓越しに李猛を銃撃し腹部に重傷を負わせた。 -同月19日夜、[[明友会]]幹部・宋福泰と韓博英ら6人が、大阪市南区河原町で[[加茂田組]]組員・前川弘美ら3人を拉致、布施市足代のアパート「有楽荘」に連行しリンチを加えた。 これを聞いた[[姜昌興>甲山五郎]]は、宋福泰と韓博英らに拉致した3人の解放を指示。20日午前0時頃、拉致された前川弘美ら3人は[[加茂田組]]事務所に戻った。 -[[加茂田組]]組長・[[加茂田重政]]は組員と武器を集め、事態の急変を察知した西成警察署の包囲をすり抜け南区大和町に集結。 -同月20日午前6時、[[加茂田重政]]と[[加茂田組]]組員15人で「有楽荘」を襲撃し[[明友会]]組員・山岸襄を射殺、李義雄の肩を斬って重傷を負わせた。 ** 抗争の終結 [#xf092bf8] -1960年8月21日、[[明友会]]会長・[[姜昌興>甲山五郎]]以下、[[明友会]]幹部15人が指を詰めた。 -同月23日、箕面市の「箕面観光ホテル」で別府市の[[石井組>石井一家]]組長・[[石井一郎]]が仲裁人となり、[[山口組]]と[[明友会]]の手打ち式が行われた。 名目的には手打ちだったものの、[[山口組]]の猛攻の前に僅か2週間たらずで[[明友会]]側が幹部15人の断指した指を持参するなど、実質的に[[明友会]]側の全面降伏に等しかった。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~
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