#author("2024-10-17T16:37:52+09:00;2024-04-28T22:26:00+09:00","","") #author("2024-10-19T18:54:55+09:00;2024-04-28T22:26:00+09:00","","") * 菅谷政雄 [#dd469872] ''菅谷政雄''(すがたに まさお、1914年-1981年11月25日)は元三代目[[山口組]]若頭補佐、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]組長。 ** 略歴 [#l74c5b0e] -1930年頃から頭角を現し、数十人から数百人規模の[[愚連隊]]を形成。国際ギャング団と呼ばれた。 -[[住吉連合]]の[[浜本政吉]]とは、愚連隊時代から非常に仲が良かった。 -1946年から1959年まで13年服役、その仮出所後の同年11月、三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]の盃を受けて[[山口組]]の若衆となり、''[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]''を結成。 -1960年、[[明友会事件]]後、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]舎弟頭・[[浅野二郎]](後の[[浅野組>浅野組(安達組)]]組長)が大阪に事務所を構え、菅谷政雄も大阪にいる時間が長かったとされる。 -大阪では[[誠会>小車誠会本家]](後の二代目[[小車誠会>小車誠会本家]])を率いる[[川口義昌]]を舎弟分として在阪勢力を驚かせ、有名な博徒でもある[[波谷守之]]とも知り合った。 -後には業界の老舗である大阪の[[酒梅組]]四代目・[[中納幸男]]と五分兄弟盃を交わしている。 -1961年から1964年頃にかけて[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]は神戸、大阪、和歌山、福井、石川、栃木、福島、愛媛、福岡、熊本に進出し、最盛期は構成員1200人を擁した。 -警察論文集によると「麻薬暴力団」とされる[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]は、福島、栃木、四国などで密売組織を作り数度にわたり覚醒剤事犯を起こしている。 また経済力も強く、1974年に出資法違反で起訴された際には年間20億円を超える収入があったことが明らかになっている。 -1963年、[[山口組]]の集団指導体制が発足すると若頭補佐に就任。 -同年、[[川内弘]]を舎弟にした。 -1971年、[[梶原組]]組長・[[梶原清晴]]の急死を受けて、[[山健組>山健組(山口組)]]組長・[[山本健一]]が若頭に就任する際には、互選で選出された[[山広組]]組長・[[山本広]]に対して、若頭断念の説得工作などを行った。 -1977年4月13日、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]舎弟・[[川内組]]組長・[[川内弘]]の本家昇格工作を巡って内部抗争を起こし、[[菅谷政雄]]の命を受けた襲撃部隊が[[川内弘]]を射殺する事件が発生。 この事件を重要視した[[山口組]]執行部は[[菅谷政雄]]を絶縁とした。 -絶縁された後も[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]は解散せず存続するが、次第に離散する者が増えた。 -1978年、[[菅谷政雄]]が収監されるに至って勢力はさらに減少していった。 -1981年、出所した[[菅谷政雄]]は[[波谷守之]]に相談しに行き、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]の解散を進言される。 -[[波谷守之]]と[[浅野二郎]]は、[[菅谷政雄]]が癌に侵されていて、余命が長くないことを医師から伝えられていた。余命をカタギとして穏やかに暮らして欲しいと願っての進言だった。 -同年6月、[[菅谷政雄]]は2人の進言を受け入れ、[[菅谷組>菅谷組(兵庫県)]]の解散を決断し、[[田岡一雄]]の元に「長いこと親不孝しました」と詫びを入れカタギとなった。 -同年11月25日、67歳で死去。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~