#author("2024-11-02T02:41:29+09:00;2024-11-02T00:23:13+09:00","","")
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* 熊谷正敏 [#jed72c8d]
''熊谷正敏''(くまがい まさとし、1961年- )は日本のヤクザ。指定暴力団・[[稲川会]]渉外委員長・東京ブロック統括長、十一代目[[碑文谷一家]]総長。[[熊谷組>熊谷組(碑文谷一家)]]組長。
** 略歴 [#x99ae724]
-1961年、宮城県仙台市生まれ。父親の転勤で小学三年生の時に東京都大田区に引っ越した。当時の将来の夢は警察官であったという。
-[[碑文谷一家]]・[[西山組>西山組(碑文谷一家)]]内に[[熊谷組>熊谷組(碑文谷一家)]]を結成。面倒を見ていたカタギからトラブルの相談を受け、相手企業の上司と話し合いをするも相手は逃げて回り、更にその上部企業と話し合いをするも一向に応じず、最終的に某ゼネコン一次企業本社にアポイントを取り、数日後その本社から面会の許可を得て後日本社へ熊谷一人で出向き、自社高層ビル最上階に近い副社長室の部屋を案内された。テーブルには大金が積まれており、副社長から「手を退いて貰えませんか?」との申し出に対し、金に一切手を付けないばかりか怒号や脅迫もせず、冷静に淡々と副社長と話し合いをするも結果は平行線のままだった。数日後、熊谷に責められていた某大手企業の副社長から相談を受けていた[[稲川会]]二代目会長の[[石井隆匡]]から、いくら四次団体の組長であれ組織全体からは末端組員の熊谷は直に総本部に呼び出され、事の成り行きの尋問を受けたが、企業側から目の前に積まれた大金にも一切動じない姿勢、私利私欲で全く動こうとしない熊谷の姿勢が当時の[[稲川会]]本部長・[[稲川裕紘]]の目に留まり、[[稲川会]]三代目体制で直参に昇格。後に会長付、本部長補佐を歴任。
-2006年、持病の悪化により、臨終期が迫る三代目会長[[稲川裕紘]]の遺言に忠実に従い、[[稲川会]]四代目に実子を、会長の遺言に筋を通し数十人の[[稲川会]]三代目最高幹部が担いだ結果、[[稲川会]]分裂騒動に陥り、[[稲川会]]四代目会長[[角田吉男]]に決定後、自らの意思により三階級下の代表理事にまで降格した。
-2010年、[[稲川会]]五代目会長・[[清田次郎]]の承認により直参に復帰。
-2016年、[[碑文谷一家]]十一代目を継承。
-2018年、[[稲川会]]理事長補佐に就任。
-2020年、[[稲川会]]渉外委員長・東京中央ブロック統括長に就任。
-2021年9月6日、七代目[[三本杉一家]]総長の[[國近哲也]]が、東京ブロック統括長として[[稲川会]]本部から毎月支給される経費の使い込みを、要職を引続いた熊谷が発見し[[内堀和也]]理事長に報告した。その後[[稲川会]]本部から許可を得て追及したが、國近は関東の別組織から億単位の借金を自供し、引退させ、國近の組織は[[碑文谷一家]]預かりになった。
-2024年10月23日、稲川会館で[[親之助一家]]の八代目継承盃式が執り行われ、熊谷正敏が七代目代りを務め、[[親之助一家]]の八代目を[[小林豊]]が継承した。
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