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* 津向文吉 [#s650269d]
''津向文吉''(つむぎの ぶんきち、本名・宮沢文吉、1810年-1883年10月5日)は幕末から明治の侠客、博徒。甲州博徒。[[津向一家]]初代。
''津向文吉''(つむぎの ぶんきち、紬文吉、本名・宮沢文吉、1810年-1883年10月5日)は幕末から明治の侠客、博徒。甲州博徒。[[津向一家]]初代。
** 略歴 [#g980faaa]
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-山梨県西八代郡津向の人。
-文化7年(1810年)津向村の名主宮沢家の次男に生まれる。
-[[三井卯吉]]の配下(子分か)で、[[竹居安五郎]]と争った。
-弘化2年(1845年)、甲州鰍沢で[[竹居安五郎]]との抗争があり、[[祐天仙之助]]と組んで、安五郎の食客で武士の[[桑原雷助>桑原来助]]を殺害した。
-同年、駿河の[[清水次郎長]]の叔父にあたる[[和田島太右衛門]]との間で出入りがあり、子分10人を引き連れて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出向いている。
-賭博の罪で八丈島に送られる。八丈島流人帳に嘉永2年4月流罪明治2年5月赦免、末吉村預り・無宿文吉着島年令39歳とある。
-島の女との間にできた子が、[[伊勢川島一家]]初代・[[武蔵屋周太郎]]こと川島庄三郎の跡目・島小僧こと[[荒木田喜代蔵]]だと言われている。
-明治の恩赦で甲州に帰って来る。
-[[和田島太左衛門>江尻紺久]]の弟分で、[[清水次郎長]]の兄貴分。
-武州[[寺谷一家]]の供養碑に世話人・甲州津向・宮崎文吉(宮沢が正しい)とある。
-子分には定右衛門、勇助、亀助、鉄五郎などがいた。
-明治16年10月5日没。行年73歳。墓所は山梨県西八代郡六郷町津向の共同墓地。
隣に子分の[[飯窪定五郎>和泉定五郎]]の墓もある。
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