#author("2024-10-25T09:40:33+09:00;2024-09-06T23:48:52+09:00","","")
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* 堀 政夫 [#kf9b7f53]
''堀 政夫''(ほり まさお、1925年-1990年10月25日)は日本のヤクザ。[[住吉連合会]]総裁。[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]五代目総長。[[中里一家]]四代目総長。[[港会]]常任理事。
** 略歴 [#c1e3aa5a]
#ac(h,open){{
-長崎県佐世保市出身。
-住吉一家二代目・[[倉持直吉]]の最後の若い衆である。
-地元学校を卒業後、十代後半に東京都港区白金に住み、一回り年上の[[高橋岩太郎]]の賭場に出入りしていた。当時は血気盛んだったようで、土地の治安と風紀的秩序や賭場荒しを防ぐ為にも、周辺を徘徊する見掛けない初顔の[[愚連隊]]を見つけては声をかけ、その際に挨拶もせず反抗する相手には問答無用で匕首で斬りつけ、賭場周辺から見知らぬ[[愚連隊]]は徹底的に排除していた若者であったと、後に[[高橋岩太郎]]は言っている。
-若い頃、[[高橋岩太郎]]と共に神奈川県熱海の温泉街の賭場でハイダシをしていた所を、[[磧上義光]]の実兄・[[磧上義朝]]に見つかり大目玉をくらい、高橋と帰らせられたのは事実である。
-若い頃、[[高橋岩太郎]]と共に神奈川県熱海の温泉街の賭場でハイダシをしていた所を、[[磧上義光]](四代目[[上萬一家]]本所駒形貸元・後に、[[磧上会]]会長・[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]四代目総長)の実兄・[[磧上義朝]]に見つかり大目玉をくらい、高橋と帰らせられたのは事実である。
-二代目[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]高輪・伊皿子貸元、[[井出六蔵]]親分との縁で渡世入り。
-1950年の戦後、芝居一座などの興行主として東北一円を巡業。
-1955年、[[井出六蔵]]の命で兄弟分の[[後藤基治]]は千葉県柏市に行き[[馬橋一家]]を継承、[[堀政夫]]は30歳で千葉県野田市に行き[[中里一家]]の跡目を継いだと言われている。
-1967年、[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]四代目・[[磧上義光]]から五代目の指名を受け、「[[住吉連合>住吉会]]」を結成し代表に就任。[[堀政夫]]42歳であった。
-1982年、組織名を「[[住吉連合会]]」に改め会長に就任。
-1988年、[[住吉連合会>住吉会]]総裁に就任。組員も準構成員含め1万6千人から総勢2万人にまで増え続けた。
-1990年10月、東京都墨田区向島の病院にて肝硬変で死去。享年65。その葬儀には全国から2万人を超す弔問者が参列したという。
}}
** 人となり [#c1e3aa5a]
#ac(h,open){{
-自身の都合で義理を欠いてしまった時、後日側近に何も告げず単身でその組織へ訪れ、「大変申し訳ありません」と、大組織の首領にもかかわらず額を畳に擦りつけながら土下座をする人物であったという。この逸話は、某月刊誌に取材された組織の長が、感慨深く記者に述べている。
-東北地方のある親分の自宅へ泊まる時、その親分が若い衆に指示し、分厚いふかふかの布団を用意させようとするも、風呂から上がって来た[[堀政夫]]がそれを見るや、「今後懲役に行った場合のことを考え、普通のせんべい布団をお願い出来ませんか?」と、困惑した表情で、真剣にその若い衆に相談していたという。
-1970年代、[[住吉連合]]幹部の葬儀終了後、全ての片付けも終え10人近くの最高幹部と記念写真を撮り、みな自由のポーズで撮る中、真ん中で軍人のように一人直立不動で立っているのが[[堀政夫]]である(某月刊誌にて掲載)。
-日本の映画やお笑い界に影響力を持ち、現在は映画監督でもある北野武は、1986年12月、フライデー襲撃事件後、8カ月で復帰した際「復帰が早すぎる」と日本青年社に街宣をかけられた。それを止める為に、仲裁人も入れず[[堀政夫]]を訪ね、謝罪したという。後に北野武自身の著書にも述べられているが、北野武は[[堀政夫]]から、「あれ?わざわざ一人で?そりゃ立場考えないとダメだよね、俺からもよく言っておくから、まぁ先方(日本青年社会長[[小林楠扶]])にね、一言謝れば」と論され、後日、やはり小林の元へ一人で出向いて謝罪した。[[小林楠扶]]は、北野武に対しマスコミ側の過剰な取材や、出版社員の挑発行為を問題視しつつも怒られながらも励まされ、金銭要求などは全く無かったと述べている。この一連の[[堀政夫]]の振る舞いが、後の北野映画の北野武自身の演技力に強く影響したと書物で述べている。
-武力では無く人間性で組織を築いた人物でもあり、当時、最盛期の総勢2万人に到達する大住吉を率いる首領にもかかわらず、豪華とはいえない質素な一軒家に住み、金銭に対する欲が無く、専用のリムジンに乗るのを嫌がり、大人数で歩くのを毛嫌いし、道の端を歩き、最高幹部である側近にさえ行き先を告げず、自ら切符を買い、単身で一般人と同じように手すりや吊革に摑まり、人の流れや四季の移り替わりを見て、それを楽しむかのように電車で移動していたという。現在ではまず考えられない本物の庶民派親分でもある。
-2021年現在、[[住吉会]]・[[関 功>関功]]代表(2022年5月死去)は、[[堀政夫]]の直系若衆でもある。
*** 逸話 [#c1e3aa5a]
-「え?まーちゃんが([[堀政夫]])穏健派だと思ってるかもしれんがな、あー、そりゃとんでもない。あれ程、気性の荒い武闘派はいないよな、本来短気な男がな、調整役に徹して我慢してる姿見てりゃ、こっちが涙出てくるし辛くなってくらぁ」
※[[日本国粋会]]・六代目[[落合一家]]総長 [[高橋岩太郎]] (某雑誌取材抜粋)
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