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* 会津小鉄 [#i8650a88]
''会津小鉄''(あいづの こてつ、本名・上坂仙吉(こうさか せんきち)、1833年 - 1885年3月19日)は幕末の侠客、博徒。[[会津小鉄一家>会津小鉄会]]初代。
** 略歴 [#wf3b13ad]
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-京都府京都市の人。
-天保4年(1833年)5月20日または7月7日、大阪島之内で元水戸藩士の浪人・上田友之進と大阪島之内の太物商丹波屋吉兵衛の一人娘ユウの子として生まれた。幼名は鉄五郎。
-6歳で天涯孤独となった。
-博徒の親分[[上坂音吉]]と出会う(一説には盃をもらう)。
-17歳の時に博徒となり[[大垣屋清八]]の身内となるとも。また17歳の時に殺人を犯す。[[上坂音吉]]に付き添われ奉行所に出頭し、大坂所払いとなった。
-渡世入りした仙吉は、江戸へ向かう。江戸では香具師の親分、[[神田政五郎]]一家の所へ草鞋を脱いだ。この時、江戸の大親分辰五郎一家と政五郎一家の喧嘩の仲裁役を買って出て男を上げた。
-江戸から京都へ移り、文久2年頃、[[名張屋新蔵>名張屋新造]]一家の縄張りであった粟田口で、仲間3人と隠れて賭場を開帳した。しかしこれがすぐに[[名張屋一家]]に露見し、夜襲をうけた。この時女房おりんが命を失った。
おりんの敵討ちに[[名張屋一家]]に単身乗り込み、おりんを殺したお神楽源治を斬殺した。
この一部始終を見ていたのが、会津藩邸出入りの中間、人夫、鳶職などの御用達をしていた[[大垣屋清八]]であった。[[大垣屋清八]]は仙吉の腕と度胸と人情に惚れて仙吉を引き取った。ここに仙吉と会津藩との接点が生まれる。
この聖護院森の大喧嘩は若鶴虎吉の仲裁で和解。
-岐阜大垣に住んで大垣藩邸御用達で修業をした後、京都に戻って[[大垣屋清八]]と親分子分の盃を交わし、当時京都にあった黒谷と百万遍の両会津藩邸の中間部屋の部屋頭となった。
-仙吉は、背一面に小野の小町の絵柄と桜吹雪をあしらった刺青を入れ、長曽根入道虎徹の長脇差を常に携帯していた。小柄な体格であったことから''小鉄ノ仙吉''と呼ばれていたが、会津藩中間部屋を取り仕切るようになると''会津ノ小鉄''と呼ばれるようになった。
-仙吉の元には、若い頃の仲間である[[いろは楼ノ幸太郎>いろは幸太郎]]、[[旅籠屋ノ熊五郎>旅籠屋熊五郎]]、[[京友禅ノ常吉>京友禅常吉]]が若衆を引き連れてやってきて、盃をもらって子分となった。
-文久2年(1862年)、仙吉が29歳の時に[[大垣屋清八]]の許可を得て、代紋は大瓢箪と定めて、[[小鉄一家]]の看板を掲げた。この時子分は300人程いたという。
-文久3年(1863年)12月、京都守護職の会津藩藩主・松平容保が1000人の兵を引き連れて京都にのぼった。この1000人の兵を収容するために、会津藩は黒谷、百万遍両藩邸の拡張や宿舎の建設を工期100日そこそこで行った。この時仙吉は会津藩の命令で、工事に必要な人夫、大工、左官などの職人、建設資材から、米、味噌の食料品までを調達し、工事を背後から支えた。
-元治元年(1864年)池田屋事件が起こる。新選組の仕事をやりやすくしたとされる。
-同年、蛤御門の戦いが起こる。この時仙吉は、会津藩や薩摩藩兵士の死体や負傷者収容の総指揮をとった。この労により会津藩藩主・松平容保からは感状と恩賞をもらっている。
-菊乃屋という貸座敷で丸腰でいたところを何人かの浪士に襲撃され、命はとりとめたが、額や肩、胸元、胸、足など数カ所に大小の傷を負った。この時、右手で白刃を握ったことから、親指と人差し指以外の三本の指がそぎ落ちた。
-体中傷だらけの仙吉は、生まれ故郷である大阪で療養生活を送った。家はかつての博打仲間である音吉が高津に用意してくれた。この高津の家で芸者・小富との間に男児[[卯之松>上坂卯之松]](後二代目となる)が生まれた。仙吉が大阪で療養中、京都の[[会津小鉄一家]]を支えたのが、[[いろは幸太郎]]ら小鉄一家四天王、八人衆であった。この頃になると[[会津小鉄一家]]は、京都のほか大阪、兵庫、滋賀方面にも舎弟や子分をつくり一家の勢力を伸ばしている。
-当時京都では大名屋敷の中間部屋が、大阪では大阪城勤番の直参旗本が賭場を開いていた。仙吉はこの直参旗本が開いていた賭場に出入りし、旗本の侍や用心棒と渡り合い3人を殺めたことから牢屋送りとなった。京都で仙吉の留守を守ってた[[いろは幸太郎]]ら幹部が200両という大金を用意して旗本をなだめ、死罪は免れた。
-慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い(薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と、会津藩を中心とする旧幕府軍との戦い)が起こった。仙吉は牢屋から釈放され、会津藩のために総勢500人の荷駄隊を率いて従軍し、食料品の輸送や、負傷兵の収容、傷の手当などを行った。
-戦いで会津藩は壊滅状態となり、仙吉も子分の[[いろは幸太郎]]ら15、6人を残して、残りの荷駄隊隊員全員に功労金を支払い荷駄隊を解散させた。その仙吉に対して会津藩も労をねぎらい任務を解いた。
-任務を解かれたが、仙吉は戦死した会津兵の遺体を収容する仕事をやりたいと直訴した。会津藩は仙吉に千両箱を渡し、仙吉はこの金を使って会津藩だけでなく官軍側の戦死者の遺体を収容し、砲弾によって穴があいた道路を補修し、落ちかかった橋の改修工事を敵陣からの妨害などにあいながら命がけで行った。そして、仙吉は自ら会津まで行き、回収して荼毘に付した遺骨を届け「会津藩兵の遺体を全部収容した」ことを報告してお役御免となった。
-仙吉は遺体の収容作業が終わった後、博徒の親分として鳥羽伏見の戦いに加わり官軍と応戦した戦犯として捕まり連行された。
-遺骨を届けた後、仙吉は会津から大阪高津の自宅に帰ったが、妻小富は二人目の子どもを身ごもり、難産で体力を使い果たし死亡していた。次男の辰之助は九州博多の博徒の親分の所に養子に出し、仙吉は長男の[[卯之松>上坂卯之松]]を連れて京都に戻った。
-かつて、蛤御門の戦いで孤児となったユカという幼女を[[いろは幸太郎]]が救って仙吉のもとに連れて来たことがあった。仙吉はこの子の養育を知り合いの祇園の女将・よねに頼み、養育費として大金を渡した。成長してユカは祇園で芸者をしていたが、京都に戻った仙吉はこのユカと結婚をした。20歳の年の差婚であった。このユカとの間に仙之助が生まれた。
-この頃の会津小鉄会の縄張りは、京都を中心に滋賀、大阪、神戸へと拡がり、直系の子分は2000人、孫子分まで合わせると12000人という巨大組織となっていた。各地の賭場から仙吉のもとへ1日150円(現在の貨幣価値で5000万円)が上納されていたともいう。
明治9年(1876年)、京都市左京区北白川吉田町1丁目に仙吉は約2400坪の大豪邸を建造した。
-明治17年(1884年)、賭博犯処分規則制定された。所謂明治の博徒大刈込である。この前後は明治新政府が博徒を大弾圧する時期であり、仙吉も明治16年(1883年)に逮捕され、賭博開帳罪と博徒招結罪で重禁錮10ヶ月罰金100円の判決を受けた。
-仙吉は10ヶ月の刑期を務めて出所したが、この時別人のように衰え、すぐに京都大学の附属病院へ入院した。
-明治19年(1886年)、死を悟った仙吉は得度をして僧籍に入り、その後死亡した。享年53歳。
-[[会津小鉄一家]]は自分一代限りとの遺言を残したが、遺言に反して仙之助は家出をし行方不明になり、[[上坂卯之松]]は会津小鉄の二代目を継いで博徒となった。
-墓には明治18年3月19日没。行年53歳とある。墓所は京都市左京区黒谷の西雲院。
8月19日没とも。
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