稲葉地一家
十代目稲葉地一家(いなばじいっか)は愛知県名古屋市中村区大門町4に本部を置き、愛知県名古屋市中村区羽衣町39-4に本家を置く暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の三次団体。上部団体は三代目弘道会。
主な施設
略歴
結成〜戦前期
- 尾張国愛知郡岩塚村(現在の名古屋市中村区岩塚)の博徒・岩塚忠七の子分で、同郡中村大字日比津(現在の名古屋市中村区日比津町周辺)出身の博徒・日比津善七が幕末から明治初期にかけて名古屋西部地方(現在の中村区、中川区、西区周辺)に大勢力を築く。この頃は未だ家名はなかった。
日比津善七は清水一家の山本政五郎の兄弟分であった。また清水次郎長の舎弟であったという説があるが、確実ではない。
日比津善七には日比津の七人衆と呼ばれる以下の有力な配下がいた。
- 1879年(明治12年)、日比津善七が死去。七人衆で舎弟(または筆頭子分)の稲葉地甚之助が跡目を継承。この頃に勢力は名古屋一帯にまで広がった。また、稲葉地甚之助が尾張国愛知郡中村大字稲葉地(現在の名古屋市中村区稲葉地町周辺)の出身であったことから、集団は稲葉地一家を名乗るようになった。
- 明治15年頃、日比津善七が稲葉地甚之助に跡目を譲ったという説もある。
- 稲葉地甚之助には以下の有力な舎弟・子分がいた。
- 1890年(明治23年)、稲葉地甚之助が死去。水車藤三郎が三代目を継承。
- 明治30年頃、稲葉地甚之助が水車藤三郎に跡目を譲り、その後凶状を負い東京市に逃げたが客死したという説もある。
- 1917年(大正6年)、水車藤三郎が隠退し、今枝政五郎を跡目に指名したものの力不足であった為、富田鍋吉と共同で跡目を預かる事となった。今枝政五郎は旧郡部一帯、富田鍋吉は旧市部一帯を取り仕切り、鬼頭由次郎がこれを後見していた。後に鬼頭由次郎が死亡し、その後富田鍋吉が旅に出た(刑の言い渡しを受けて逃亡とも)ため、ついに今枝政五郎が一家の実権を掌握した。
- 別説では今枝政五郎、富田鍋吉、桜木徳次郎?の3名が費場所を共同で預かったとも。
- 今枝政五郎の跡目を稲葉地一家浜長四代目・上條義夫が継承。この頃、系譜が整理され稲葉地甚之助が一家の初代とされた。
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戦後期
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山口組加入以降
系譜
祖 - 岩塚忠七
祖 - 日比津善七
初 代 - 稲葉地甚之助
二代目 - 水車藤三郎
三代目 - 今枝政五郎
四代目 - 上條義夫(浜長四代目)
五代目 - 中村真人(鍵次郎四代目)
六代目 - 伊藤信男(高村三代目)
七代目 - 鬼木賢緒(笹若三代目・鬼木会会長)
八代目 - 池田憲一(高村四代目・池田会会長)
九代目 - 中村英昭(高村五代目・二代目池田組組長)
十代目 - 松山 猛(高村六代目・六代目高村会会長)
十代目稲葉地一家組織図
総長
松山 猛(三代目弘道会舎弟頭)
執行部
若 頭 - 林 雅志(雅竜組組長)
総長代行 - 松井清澄(松井組組長)
若頭代行 - 林 達彦(二代目上田組組長)
舎弟頭 - 岡 輝智(八代目伊藤忠組長)
本部長 - 井上光正
若頭補佐・総長秘書 - 山口 茂(七代目高村会会長)
若頭補佐 - 山崎 修(稲心組組長)
事務局長・財務局長 - 伊藤基広(伊藤組組長)
顧問
三島研三
永島 潔(初代永島組組長)
相談役
上田一夫
天立雅徳(天立組組長)
森嶋弘道(三代目弘道会若頭補佐・森嶋興業組長)
幹部
事務委員 - 芝田 禎(芝田組組長)
若中
財務委員 - 立花繁樹(立花組組長)
風紀責任者 - 柿田 弘(柿田組組長)
吉井 誠(吉井組組長)- 勾留中
田中義人(二代目極修一家総長)
西田昌行(稲心組若頭)
薗田武治(稲心組本部長)
西幸一郎(稲心組組長代行)
高橋順也(高橋総業組長) - 勾留中
各派
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