間ノ川又五郎
間ノ川又五郎(あいのかわの またごろう、別名・佐山又五郎、本名・佐山忠輝、1815年 - 1875年)は幕末の侠客、博徒。間ノ川一家三代目。
略歴
- 上野国邑楽郡海老瀬に生まれる。
- 島田屋伊伝次跡目。
- 1815年(文化12年)、上州(現在の群馬県邑楽郡板倉町の一部である北海老瀬村)の佐山家に生まれた。
- 信州長野中野村に一家を構えた。
- 兄弟分には、西浜田伏村ノ藤吉、伊勢新茶屋増吉、館林の江戸屋虎五郎、館林市羽附村の坊主亀、仝赤生田の角力啓?、太田市岩瀬川沢吉、足利の金山幸助?、(四分)加茂の虎屋、弟分武州蓮沼村の新太郎?、長岡の高橋庄之助、大橋金太郎などがいた。
- 有名な赤報隊・相良総三に対して、三百人の手勢を応援に出すほどの勢力を持っていた。
官軍と幕府軍維新の戦いである飯山戦争では、混乱する地元の治安維持の任を受け持ち、駐留していた尾張藩の警護、兵糧調達の役目をした。戦いでは子分を連れて、尾張藩に従い、越後小千谷に出陣した。
- 副業として上総屋という妓楼の経営者で、さらに十手持ちでもあった。
- 維新後は、信州中野で起きた百姓一揆である中野騒動において、関係者捕縛の仕事を行い、その功が認められ、中野県庁、その後、長野県庁の正式職員となった。
- 1875年(明治8年)12月25日、死去。享年61歳または62歳。墓所は長野県下高井郡山ノ内町の善応寺。
- 跡目は斉藤平作が継ぐ。
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