波谷守之
波谷守之(はだに もりゆき、1929年11月28日 - 1994年11月2日)は、日本の博徒。波谷組組長。元・三代目山口組菅谷組舎弟。最後の博徒、天一坊と呼ばれた。
略歴
- 広島県呉市阿賀町出身。
- 日本の博徒界で歴史上1、2を争う理解し難い桁違いの尋常ではない超大博打の勝負師。
- 1945年(昭和20年)3月、広島市の博徒・渡辺長次郎?の子分(若中)となった。
- 同年12月、米軍による原子爆弾攻撃により親分である渡辺長次郎?が死亡し、土岡組?の組長である土岡博?の舎弟となり土岡組?の若中になる。
- 1946年(昭和21年)3月、土岡博の舎弟・大西政寛?(通称・悪魔のキューピー)が中国から復員し、土岡組?に加入した。この頃の広島県呉市の山村辰雄(後の初代共政会会長)が山村組の看板を掲げ、進駐軍の木材運搬を行い経済力をつけていった。
- 1954年(昭和29年)10月、広島県に山村組組長と若頭である佐々木哲彦?の主導権争いに巻き込まれ(仁義なき戦い)、山村派小原組組員・平尾一三?は碁会所から出てきた波谷守之の実父、波谷吾一?を射殺した。土岡組?幹部・波谷守之は拘留中であった。
- 1961年(昭和36年)、波谷は大阪に戻り、大阪市南区黒門市場に家を借りた。元土岡組?・折見誠三、河面清志、藤島章三、平畠行人、池田孝志、松本武、面寿一、向和敏、前原忠之、久山勝次、上野安芸男、平本隆広、松本八重子が集まった。
- 同年、道子と結婚した。
- 同年、松本武が、パチンコ店で、愚連隊互久楽会の若衆と喧嘩になり、菅谷組浅野組事務所に逃げ込んだ。互久楽会の若衆は、山口組の代紋が入った看板を叩き割った。波谷守之は、菅谷政雄に会い、看板が割られた件を謝罪した。菅谷政雄は「看板は、また作ればいいだけのと」とし、波谷守之を不問とした。
- 1970年(昭和45年)11月、波谷守之は、三代目山口組若頭補佐菅谷政雄の舎弟となった。
- 1977年(昭和52年)1月、菅谷政雄は、内密に三代目山口組直参昇格を勝手に進めていた菅谷組系川内組・川内弘組長を破門とした。これを切っ掛けとして、三国事件が勃発した。
- 同年1月、三国事件に関与した組員の中に波谷組組員が参加していたことで逮捕状を出した。
- 同年8月31日午後9時過ぎ、阿倍野署の刑事2人は、波谷守之を殺人・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬取締法違反容疑で逮捕した。冤罪の始まりである。(三国事件)
- 1981年(昭和56年)11月25日、兄貴分である元三代目山口組若頭補佐・菅谷組組長の菅谷政雄が67歳にて死去した。その頃の波谷は冤罪により拘禁中であり、懲役20年を宣告され裁判で戦っていた。
- 1984年(昭和59年)9月13日、長い年月を費やして無罪を勝ち取った波谷守之は、金沢刑務所を出た。
- 1985年(昭和60年)波乱万丈の人生で、山下耕作監督「最後の博徒」のモデルになったのは波谷守之である。
- 1987年(昭和62年)11月24日、菅谷政雄の7回忌が行われた。波谷守之の交渉で、午前中には、一和会関係者が焼香し、午後には山口組関係者が焼香した。
- 1994年(平成6年)11月2日、波谷守之は、大阪市阿倍野区の自宅で こめかみを拳銃で撃って自殺した。
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