平井亀吉
平井 亀吉(ひらいの かめきち、本名・大林 亀吉、1829年-1893年)は幕末から明治期の侠客・博徒。平井一家初代または二代目。清水一家の清水次郎長と争った。
人物概要
通称・雲風 亀吉(うんぷう かめきち)や風雲 亀吉(ふううん かめきち)とも呼ばれた。また博徒となる前は江戸大相撲の清見潟部屋の力士として活動しており、四股名は風雲又は風雲の藤八だった。
来歴
- 文政11年(1829年)三河国宝飯郡平井村(現在の愛知県豊川市平井町付近)に生まれる。
- 力士廃業後、東三河を縄張りとする博徒平井一家の親分小中山七五三蔵(こなかやまのしめぞう、小中山注連蔵、小川七五三蔵、小川注連蔵とも)の子分となり平井一家の跡目を継いだ。
当初、平井一家初代は七五三蔵であり、その跡目の亀吉が二代目であったが、現在の六代目山口組・平井一家の系譜は亀吉が初代とされている。
東海道の宿場御油宿(現在の豊川市御油町)・赤坂宿(現在の豊川市赤坂町)を主な縄張りとした。
- 亀吉は甲斐国八代郡上黒駒村(現在の山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の博徒黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう 本名:小池勝蔵)と兄弟分となり、勝蔵が駿河国有渡郡清水町の清水次郎長(しみずのじろちょう 本名:山本長五郎、清水一家初代)と対立していたため亀吉も次郎長と何度も争った。
- 元治元年(1864年)、勝蔵が平井村の亀吉の所に逗留していたところ、清水一家に幡豆郡寺津村(現在の西尾市寺津町)の寺津間之助(てらづのまのすけ 本名:藤村甚助、寺津一家二代目)、幡豆郡吉良村(現在の西尾市吉良町)の吉良仁吉(きらのにきち 本名:太田仁吉、寺津一家三代目、後の吉良一家初代)、宝飯郡形原村(現在の蒲郡市形原町)の形原斧八(かたのはらのおとはち 本名:市川斧八、形原一家初代)ら次郎長と協力関係にある勢力を加えた34名に襲撃され、亀吉と勝蔵の子分6人が殺害された。亀吉と勝蔵は逃げ切ることができた。
同年、報復として亀吉の末弟善六が形原斧八を襲撃し子分7人を殺害した。
- 慶応2年(1866年)、伊勢国河曲郡神戸町(現在の三重県鈴鹿市神戸付近)の神戸長吉(かんべのながきち 本名:初芝才次郎、伊勢神戸一家初代)と伊勢国員弁郡穴太村(現在の三重県員弁郡東員町穴太付近)の穴太徳次郎(あのうのとくじろう 本名:中野徳二郎、通称穴太徳、安濃徳(あのうとく)とも)が争った荒神山の喧嘩には長吉側に次郎長や仁吉の勢力、徳次郎側に亀吉や勝蔵の勢力がそれぞれ加勢した。
- 亀吉は全国に侠名を馳せ各地に多数の兄弟分がいた。また、伊豆国、甲斐国、相模国、武蔵国に子分3,000人を抱えた大親分大場久八(本名:森久治郎、大場一家初代)の舎弟でもあった。
- 慶應4年(1868年)、戊辰戦争(北越戦争)に従軍した後、士族に登用された。ともに従軍した博徒に尾張国愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)出身で東春日井郡水野村(現在の瀬戸市水野地域)の吉五郎一家の跡目北熊實左衛門(きたくまのじつざえもん 本名:近藤實左衛門、後の北熊一家初代)がいた。
- 明治維新後、平民に戻された亀吉は名古屋に移り住んだ。
- 亀吉が名古屋にいる間、一家は亀吉の末弟善六が預かっていたが、縄張りは他の一家に荒らされ、善六は次郎長につながる形原斧八の刺客に殺害された。
- 亀吉の次弟下地常吉(しもじのつねきち 本名:原田常吉、後の平井一家二代目)が流罪から戻り形原一家へ報復し一家を再興した。
- 常吉が亀吉の跡目を継ぐが、以降も亀吉は平井一家に影響力を持っていた。
- 平井一家と清水一家は、信濃国下高井郡中野村(現在の長野県中野市)の間ノ川一家(間川又五郎一家、相川一家)の二代目相川平三?(まのかわのへいぞう 本名:斎藤平三)、浜松の斉藤善五郎(後の国領屋一力一家初代)、名古屋の津坂音吉の仲裁で和解した。
- 明治13年(1880年)6月15日、浜松宿の料亭島屋で盛大な手打ち式が行われた。亀吉は手打ち式には参加しなかった。
- 晩年は宝飯郡下佐脇村(現在の豊川市御津町下佐脇付近)に住んだ。
- 明治26年(1893年)3月24日死去。66歳没。
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