丸茂常吉
丸茂常吉(まるもの つねきち、本名・森田常吉、1852年-1935年)は明治の侠客、博徒。丸茂一家親分。
略歴
- 嘉永4年(1851年)1月15日、千葉県船橋五日市の森田銀蔵の二男に生まれる。
- 銀蔵の妻き里は安政6年(1859年)函館市新川町、博徒・植田十兵衛の長女として生まれた。
- 14、15歳のころ、祖父十兵衛の家に出入りしている内に博奕を覚えた。
- 17歳の時、十兵衛の開帳する賭場が次第に客が少なくなって行くのに見かねて、かねて敵視している相手方の賭場に乗込んで盆を引いた。その時喧嘩となり相手方の人間に首と背中を斬られ重傷を負う。常吉の孫、春木喜美江がいうには、背中に、こどもの拳骨が入るほどの穴があり、首も思うように回らなかったという。
- 明治2年(1869年)、18歳で渡道し、北海道開拓人夫として道路開鑿工事の土工となり、工夫1000人の長となる。
- 明治14~15年(1881~1882年)頃、土工の業を捨て、「丸茂一家(マルモ一家)」と称する博徒団体を結成し、自ら頭領となる。
- 明治20(1887年)頃から、丸茂一家は函館を本拠に、全盛期には北海道、樺太、東京、青森、宮城、山形、秋田、岩手、新潟の1府2丁6県下に勢力を持ち、2万余の子分を擁した。
- 丸茂一家の若い衆は、全員が左足首のくるぶしに桃の刺青を入れていた。
- 明治43年(1910年)、丸茂一家は函館警察署に「博徒結合罪」を適用され、初代・森田常吉、二代目・森田常造?を含め、貸元・代貸ら81人が検挙され、3年~5年の刑を受けた。
これが決定打となり、丸茂一家は衰退し消滅した。
- 兄弟分に平塚一家・鶴川勘次。
- 昭和10年(1935年)3月24日没。行年84歳。墓所は北海道函館市住吉町の地蔵堂。
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