浜健組
浜健組(はまけんぐみ)は愛知県名古屋市東区泉3-30-25に本部を置く暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の三次団体。上部団体は三代目弘道会。
主な施設
本部 - 愛知県名古屋市東区泉3-30-25
旧本家 - 愛知県名古屋市千種区赤坂町5-38-6
浜健組略歴
- 広小路の健こと浜田健嗣が「浜健組」を結成し、浜田健嗣は導友会組織委員長に就任する。
- 1982年、平野家一家事務所で行われた前総裁の一周忌法要の席で、導友会・浜健組組長・浜田健嗣が破門者をなじったのを、平野家一家・徳心会会長・光岡徳成がなだめた。
浜田健嗣はこれに反発。光岡徳成が恥をかかされたと思い込んだ徳心会組員が、浜健組事務所を襲撃した。
もともと友好関係にあった導友会と平野家一家はすぐに和解が成立した。
- 1985年4月18日、名古屋市緑区のゴルフ場で浜田健嗣と導友会・水谷組組長・水谷賢司が、徳心会組員に撃たれ重傷を負った。
後に襲撃した組員は、浜田健嗣に借金の申し入れを断られ、自殺した兄貴分の敵討ちが動機であると供述した。
- 同年4月20日、報復として浜健組組員2人が徳心会事務所を襲い、組員1人を射殺した。
- 1985年11月12日、名古屋市守山区にある導友会前会長・古川竹男の墓の「開眼式」の場で、浜健組・小松組組員が光岡徳成の実兄で導友会理事長・光岡官成を射殺した。
- 1985年11月15日、導友会は浜田健嗣を絶縁処分として解散を迫ったが、浜田健嗣は応じなかった。
- 1986年1月14日、浜健組東京支部長ら3人が名古屋市の繁華街で徳心会幹部に銃撃された。
東京支部長は防弾チョッキを着ていたために無事であったが、他の2人は重傷を負った。
- すぐに浜健組は徳心会会長・光岡徳成の自宅を襲撃し、さらに徳心会事務所にトラックを突っ込ませた。
- 同年2月19日、刈谷市の路上で、導友会・光岡組組員2人が、浜健組副組長・小松組組長・小松勲を射殺、組員に重傷を負わせた。
- 小松勲の葬儀の日には激しい銃撃戦も行われた。
- 同年7月、浜健組が事実上解散することにより、徳心会、光岡組との抗争が終結。表面化したものだけで計20件、死者3名、負傷者14名を出した。
- 1990年、実質的に消滅していた浜健組の元幹部・船木信也が、旧浜健組組員を集めて「健生会」を結成した。
- 船木信也が五代目山口組若頭補佐・弘道会会長・司忍の盃を受け、弘道会に加入。先に弘道会に加入していた徳心会会長・光岡徳成は一緒にはやって行けないとの理由で引退した。
- 2005年、二代目弘道会の発足に伴い、浜田健嗣が現役復帰し二代目弘道会相談役に就任。同時に「二代目浜健組」を立ち上げ、総裁・浜田健嗣、組長・船木信也の体制となった。
- 二代目浜健組を浜健組に改称。組長は設立者の浜田健嗣となった。
- 2019年11月、組長・浜田健嗣が引退。
浜健組組織図
組 長 - 伊藤直記(三代目弘道会若中)
若 頭 - 空席
本部長 - 土屋頼正
若頭補佐 - 山田 孝(山田総業組長)
舎 弟 - 坂崎嘉彦(坂崎総業組長)
総長秘書 - 小塚博光
幹 部 - 福井暢平
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