川崎永吉
川崎永吉(かわさき えいきち 1917年生)は日本のヤクザ。住吉会特別顧問、東京盛代宗家四代目、川崎会初代。
略歴
- 14歳の時、東京盛代の三羽烏と言われた・西岡清の一門で、石巻の鹿野久男の元で入門。
- 川崎永吉は西岡清に可愛がられ、直系に引き立てられ、30代で西岡の一家名乗りを許された。
- 最も仲の良い兄弟分は、仙台で「不良の神様」と異名を取った伝説のヤクザ・西海家の吉田武。
- 1957年、11月27日深夜、兄弟分の吉田武が拳銃や日本刀を持った6人の刺客に寝込みを襲われ、惨殺された。頭部、両腕、左腋下に13か所の外相があり、頭蓋骨にまで達した後頭部の切り傷が致命傷となった
- 同日、川崎永吉は若い衆を招集し仙台へ向かったが、この抗争は後に紆余曲折の末、新宿の関東尾津組組長・尾津喜之助の仲介により、和解終結した。
- 東京盛代宗家三代目・小林正直の死去に伴い、川崎永吉が四代目を継承した。
- 1986年5月28日、山口組、稲川会、住吉会などの博徒系広域暴力団の東北地方進出に対抗するため、東北地区の的屋組織17家名が大同団結し「東北神農同志会」が結成された。
発会式は宮城県の鳴子温泉で行われ、半世紀超の家業歴を持ち、東北では現役最古参で業界に甚大な影響力をもっていた川崎永吉が最初に挨拶に立った。
- 東北における大きな盃事は、川崎永吉の取持ちや後見なしには始まらないとされ、抗争の仲裁人としてもなくてはならない存在であった。
- 1987年8月、東北神農同志会の規約を巡って加盟組織同士が激突し、内部抗争が起きる。
ねぶた祭の前日に青森県浅虫で「浅虫温泉抗争」が勃発し、死者2名、重傷者1名を出した。
- 川崎永吉の和解調停に向けての努力もあり、浅虫温泉抗争の勃発から約7週間後、和合が成立し抗争は終結した。
- 東北神農同志会はその後、北海道と同様に山口組、稲川会、住吉会などの広域暴力団入りする加盟団体が後を絶たず、発足から5年経たずして有名無実の存在となった。
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