五町田嘉四郎
五町田嘉四郎(ごちょうだの かしろう、本名・村上嘉四郎、1814年-1900年)は幕末の侠客、博徒、目明し。大前田一家五町田初代。
略歴
- 上野国吾妻郡五町田村または吾妻郡東村五町田の人。
- 大前田一家の幹部(四天王)。
- 伊香保から五町田を経て沢渡、草津への街道を基盤とした親分で、吾妻東部から北群馬郡にかけて300人からの子分を持っていた。
- 子分の中で名のある者は尻高村の町田権次郎?(安政5年生)、岩下村の西山昇(万延元年生)、中之条町の高平喜作(安政5年生)、横尾村の小林鎌足(慶応元年生)、植栗村の角田徳太郎(明治10年生)、中之条町の篠原秋蔵(明治8年生)、祖母島村の松村伴作、小野村の平方浅五郎、村上村の村上定吉、祖母島村の松村伊作、伊香保の田中弥造ら。
- 二足の草鞋であった。
- 中之条の博徒の親分千葉作と縄張り争いを起こした際、大前田英五郎が多数の子分を引き連れ小松屋に陣取った。千葉作は信濃路に敗走したが嘉四郎の子分の追手に殺された。
- 戊辰戦争では会津方について官軍に反抗した。
- 明治33年2月、87歳で病没。墓は五町田の稲荷神社の裏にあり、高さ4mの台に子分79名の刻名あり。
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