高橋輝男
高橋輝男(たかはしてるお 1922年-1956年)は日本のヤクザ。終戦後の銀座で、従来の賭博に関与せず、戦後復興時代の流れで正業を拡大させた最も最先端なエリートヤクザでもある。三代目住吉一家大幹部・大日本興行初代会長。浦上信之(銀座警察署長)の舎弟。通称祐天寺の輝。
略歴
- 「あの男がもう少し生きていたならヤクザ地図は大きく変わっただろう」と語り継がれる存在でもあった。
- 30歳代でボクシング世界チャンピオンを日本に呼び寄せ、ボクシング世界タイトルマッチの興行を開催させる程の豊富な経済力があった。しかもこれが現生の時代ではなく、太平洋戦争終戦後初期の時代なのである。
- 1956年(昭和31年)3月6日午後14時ごろ、三代目住吉一家大日本興行高橋輝男(34歳)らが台東区北清島町72の浅草妙清寺で、大日本興行幹部である箭内武治?の葬儀を執行中、同じく三代目住吉一家の向後平(40歳)が子分数名とともに自動車で乗りつけ焼香台に上がった。そしていきなり正面に座っていた高橋とその子分の同社専務桑原優?(29歳)ら参列者側に向け拳銃を乱射した。このため高橋側も拳銃を持ち出して応戦、その距離七尺(約2メートル)の至近距離で全弾発射する壮絶な撃ち合いとなった。高橋は心臓部に1発、桑原は下腹部などに5発、向後は下腹に数発の銃弾を受け.高橋、桑原は文京区駒込千駄木町の日本医大付属病院に、向後は台東区浅草雷門鈴木外科に収容されたが3人とも死亡した。
この間、葬儀に参列していた芝浦高木組・泉海陸作業会社社長でもあり三代目住吉一家総長阿部重作(60歳)は、乱闘を止めようとして右中指を撃たれ指を切断、全治1ヶ月の負傷をした。
住吉一家の筋内である大日本興行の告別式の席上において、同一家の幹部同士が二派に分かれて激しい銃撃戦を演じた。しかも相果てた向後平と高橋輝男は、ともに同一家の大幹部で、制止しようとして傷を負った阿部重作は、言うまでもなく住吉一家の三代目総長である。
当時を知るある親分によれば、告別式が終わり、後片付けをしていた時に突然起こったことで、何がなんだか分からないうち銃撃戦が始まったという。わずか数分間ほどの出来事で、阿部総長のほかにやはり止めに入った某親分も頭を銃把で打たれて軽いケガをした。
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