間ノ川一家
間ノ川一家(あいのかわいっか)は長野県に本拠を置いた博徒一家。
略歴
間ノ川政五郎
- 天明8年、高瀬茂高(後の間ノ川政五郎)は上野国邑楽郡大久保の富豪高瀬家の七代目高瀬仙右衛門(高瀬平八)の次男に生まれる。
- 高瀬家は代々大久保村(群馬県板倉町)の廻船問屋であった。
- 茂高の兄は高瀬常蔵(八代目高瀬仙右衛門)といったが、若い頃から遊び好きで、女性と揉め事を起こし金銭強要されたことから、この女性を殺害してしまい、訴訟を起こされた。この訴訟費用が嵩んだことや、 平八が若死していたことから、茂高が幼い時家は没落していた。
- 茂高は平八が吉原から連れてきた吉原久次郎の実子で平八の古くからの知り合いである博徒・間ノ川新八(間ノ川一家初代)のもとに預けられ15歳の頃から賭場に出入りし博徒となった。
- 博徒修行のため東海道一帯を旅し、甲州、信州を巡り、越後の長岡に腰を落ち着けた。
この時は越後政五郎と呼ばれていた。旅の途中、政五郎の度胸の良さと男気で、各地で色々な伝説を残し、博徒として一人前となっていった。
- その後、信州善光寺門前町の権堂に移り、遊女常設の旅籠上総屋を経営した。
- 当時は上総屋源七と名乗った。
- 当時この辺りは、善光寺参りの人に紛れて、各地から追手から逃れた博徒が集まり、地元の者からもこれらヤクザ者管理の要請があったためである。
- この当時、政五郎は40歳近くで、子分二千人余りを抱える上州出身の親分に成長していた。
- 国定忠治が信州に逃亡した際、善光寺権堂の政五郎の世話になったという話もある。
- 政五郎が42歳になった時、考えるところがあって、弟分の島田屋伊伝次に縄張りを譲った。
堅気となって、故郷の邑楽郡大久保の生家に戻り、没落した高瀬家の再興を図った。
故郷に戻った当時は大久保政五郎と名乗った。
- 生家の立て直しをして九代目高瀬仙右衛門を名乗り、文政11年には関東取締出役の案内役(関東信越地方の逃走悪漢凶徒の捕役)になった。
- その後名主を務め、最後には川俣組合40ヶ村の大惣代をも務めた。
- 晩年は自分の無学を恥じて、日夜読書に努めたと言う。
- 万延元年12月25日、死去。73歳。
島田屋伊伝次
間ノ川又五郎
- 間ノ川又五郎は島田屋伊伝次の盃を受けていた。
- 勢力範囲は、善光寺平一帯を中心に、東は関八州、西は美濃中山道、南は東海道に及び、子分身内三千人と言われた大親分であった。
- 又五郎亡き跡は斉藤平作が跡目を継いだ。
系譜
初 代 - 間ノ川政五郎こと高瀬茂高
二代目 - 島田屋伊伝次こと高橋伊伝治
三代目 - 間ノ川又五郎こと佐山忠輝
四代目 - 間ノ川平作こと斉藤平作
五代目 - 間ノ川平蔵こと斉藤平蔵
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