西保周太郎
西保周太郎(にしぶの しゅうたろう、別名・武田秋太郎、本名・竹川周太郎、1797年-1821年2月22日)は幕末の侠客、博徒。
略歴
- 東山梨郡西保の人
- 甲州博徒の先駆け。
- 生家である竹川家は江戸時代から明治期の古文書261点や木刀、銃床などの実物資料を含む竹川家資料を伝存する。竹川家史料には明暦元年(1655年)に竹川信義が作成した「竹川家由緒」がある。竹川信義は甲州流軍学を修め甲源一刀流を学んだ兵法者で、由緒によれば竹川家は上総国の竹内氏の出自であるという。また、竹川氏は室町時代に甲斐武田氏に士官し、甲斐・西保芦沢(山梨市)に土着し、当初は芦沢氏を称したという。さらに、同家の女性である瀧川が武田勝頼の寵愛を受け、天正10年(1582年)2月に勝若丸を出産したという。そして武田氏の滅亡に際して瀧川と勝若丸は落ち延び、武田氏の竹と瀧川の川の字から竹川を称する事になったとする伝承を記している。
- 竹川周太郎は江戸後期の甲斐国における本格的な博徒間抗争の幕開けを告げる人物として知られ、文政2年(1819年)頃から勢力範囲の近接する一之宮村の古屋左京との抗争が激化する。
両者の抗争は、甲州街道・勝沼宿において古屋左京と千野村幸蔵ほかと、西保村領兵衛の子分・大野村駒蔵間で公論が発生したことに端を発する。駒蔵は西保周太郎派に属する博徒で、領兵衛・駒蔵は一之宮村の古屋左京の子息・小平太宅の襲撃を行う。古屋左京はこの報復として西保中村の領兵衛宅を襲撃するが失敗し、秩父往還において駒蔵と喧嘩を行い、青梅街道沿いの小原村の小原村政兵衛宅に潜伏していた領兵衛の居場所を突き止めたという。古屋左京は政兵衛宅を襲撃すると領兵衛を殺害し、駒蔵にも傷害を加える。
こうした両勢力の抗争の激化により、文政4年(1821年)に西保周太郎は石森村において石森村常兵衛?による手打ち式に参加するが、その場で殺害された。享年25。
なお、古屋左京もその後捕縛されて刑死し勢力を壊滅させている。甲府盆地東部では新たに甲府の三井卯吉の子分となった国分三蔵や祐天仙之助らの博徒が台頭する。
- 近世侠客有名鑑では周太郎を上州 西部ノ周太と記し、上野国の博徒としている。これは西保中村が西部と誤伝されたと同時に、西保中村が秩父往還を通じて武蔵国・上野国に近いことから、実際に周太郎が上野国も勢力圏にしていた可能性も考えられている。
- 文政4年2月22日歿。山梨市牧丘町西保中の西源寺に墓石あり。
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