菅谷組
菅谷組(すがたにぐみ)は兵庫県に本部を置いた暴力団。菅谷政雄は元・三代目山口組若頭補佐。前身は国際ギャング団。
略歴
- 菅谷政雄が神戸三宮を中心に愚連隊を結成。菅谷政雄自身は「ボス」または「ボンノ」と呼ばれ、資金源は、主に米軍の運用運搬車を計画的に襲撃し、生活物資を強奪。時には米軍相手に銃撃戦も交えて逃走。強奪した生活物資を民間人に販売、拳銃や機関銃、大型重火器等の武器等は大量に保管していた。
後に数年の歳月をかけて警察に逮捕されたが、逮捕された容疑者に朝鮮人、中国人、台湾人が多数在籍していた為、新聞各社紙上で「国際ギャング団」と名付けられ、後には映画化もされた。
- 1959年11月、菅谷政雄が三代目山口組組長・田岡一雄から若衆の盃を受け、間もなく「菅谷組」を結成。
長期服役を務めた菅谷政雄は40代になっていた。
- 川口義昌(二代目小車誠会本家会長)を舎弟にした。
- 1961年から1964年頃にかけて、菅谷組は神戸、大阪、和歌山、福井、石川、福島、愛媛、福岡、熊本に進出し、最盛期は構成員1200人~1500人を擁した。
- 1963年、菅谷政雄は三代目山口組若頭補佐に就任。
- 1977年4月13日、菅谷組組長・菅谷政雄に相談もないまま、三代目山口組直参を目論んだ菅谷組舎弟・川内組組長・川内弘を菅谷組傘下組員が射殺した。
当時の川内組は、全国14県に支部を置き、400名の組員を擁し川内弘は北陸の帝王と呼ばれていた。
川内弘は菅谷政雄と露骨に反目し合うようになり、無断で山口組本家直参推薦を求めたが、後にこれを知った菅谷政雄は烈火の如く怒り一切の要件を認めなかった。
- 同年、この菅谷組が起こした破門者殺害という事件が原因となり、菅谷組は三代目山口組から絶縁。独立団体として活動した。
- 1981年、解散。
組織図
組 長 - 菅谷政雄
菅谷組系組織
- 六代目山口組舎弟・後藤組組長。
- 菅谷組・川内組若頭補佐から六代目山口組舎弟にまで上り詰めた人物。戦闘力と経済力においては往時の菅谷組を思い起こさせる組織力があった。
- 2002年7月、五代目山口組若頭補佐に就任。
- 2005年8月、六代目山口組発足に伴い、山口組舎弟に直った。
- 2008年10月、病気を理由に山口組本部の定例会を欠席し、自身の誕生日を祝って芸能人が多数参加したゴルフコンペを開いた事が問題視され、六代目山口組から除籍され引退。
- 浅野組組長
- 菅谷組の実力者といわれ、菅谷政雄からの信頼も厚く舎弟頭を務めた。菅谷政雄の絶縁後も行動をともにし、その後は一和会の事務局長として参画。
- 山一抗争後は五代目山口組安達組の相談役に就任。
- 五代目山口組若中・二代目小車誠会会長。
- 菅谷政雄舎弟。
- 菅谷組解散後は独立組織として活動。
- 関西一の的屋組織として活動していたが、五代目山口組に直参として復帰。
須藤潤
- 五代目山口組若中・須藤組組長。
- 菅谷組若頭補佐。
- 菅谷組解散後、初代竹中組組長・竹中正久の舎弟となり、四代目山口組で若中に昇格。
- 2006年引退。須藤組は解散した。
- 波谷組組長。
- 賭場での波谷守之の所作に惚れ込んだ菅谷政雄に請われ舎弟となった。
- 菅谷組解散後、独立組織として活動。後に西日本二十日会に加盟していた。
- 1990年、五代目山口組・弘道会との山波抗争が勃発。
抗争終結時の条件として若衆を全員手放したが、終生、山口組に復帰する事無く独立を貫いた。
1994年、自宅で拳銃自殺した。
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧下さい。
- 編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼する時は【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
【このページの編集依頼】