田中新太郎
田中新太郎(たなか しんたろう 1940年-1979年)は日本のヤクザ。初代工藤組若頭(後の工藤會)・初代田中組組長。
略歴
- 福岡県若松市出身。
- 1969年、当時29歳の田中新太郎が、工藤組(工藤会の前身)に幹部として加入した。
- 1970年、工藤組は「工藤会」に改称、同年田中新太郎は事務所を若松から小倉に移転し「工藤会田中組」の看板を掲げた。
「幹部としての加入」「若松に事務所を持っていた」という2つの点で、加入前から田中新太郎は独自のグループを率いて活動していた。
- 1974年、田中組は直方市に進出、地元の桃田組?を傘下に収めた。
- 1977年5月に出所した草野高明率いる草野一家は(工藤組元若頭)により、同年10月に結成された組織である。
- 1979年12月、草野高明は、三代目山口組伊豆組組長の伊豆健児と五分の兄弟盃縁組を決定。
- 1979年12月21日、兄弟盃儀式は筑紫野市内で行われた。組織の首領である会長の工藤玄治をはじめ工藤会の最高幹部の全員が出席した最中、
田中新太郎のみ音信不通となり、縁組儀式を無断欠席する前代未聞の行動に出た。結果的に、会長の工藤玄治並びに工藤会のメンツに泥を塗る結果を招き、後に大惨事が起きる引き金となった。
- 1979年12月23日未明、極政会系組員らが田中新太郎を射殺。草野一家が結縁式の欠席を「非礼」と受け取ったと考えられ、抗争が激化した。享年39歳。
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