松田義一
松田義一(通称・カッパの松 1910年-1946年6月10日)は日本のヤクザ。的屋組織・松坂屋五代目、関東松田組組長。
略歴
- 1910年(明治43年)生まれ、富山県氷見市出身。
- 幼い頃に東京に移住した。
- 中学校に進学したころには愛宕、三田、芝神明、新橋駅周辺を根城とする学生愚連隊のリーダーとなる。
- 中学卒業後、新橋のサロン「春」で用心棒をしながら銀座界隈で名を売った。
- 昼間は芝プールで水泳教師をしていたことから「カッパの松」と呼ばれた。
- この頃、銀座に事務所を構える「大和新風大化会」に出入りするようになる。
- 1937年(昭和12年)、日中戦争の勃発後、中国に渡り上海、大連などで関東軍に協力した。
- 1941年(昭和16年)、東京に戻ると、上野の日東拳闘クラブの会長・伊藤祐天を切りつける傷害事件を起こし、懲役10か月の実刑判決を受けて千葉刑務所に服役した。
- 服役中には愚連隊・破笠総長・入村貞治の若衆で「佐竹の坊ちゃん」こと飯村操と共に500人程の受刑者の上に君臨し一目置かれた。
- 服役中に妻・ルミが肺結核で死去した。
- 1942年(昭和17年)暮れに出所。妻・ルミの喪が明けた後、ルミの実姉である芳子を後妻に迎えた。
- 1945年(昭和20年)、芝西久保桜川町に自宅兼事務所を置き、愚連隊・関東松田組を結成。
第二次世界大戦後に荒廃した新橋一帯の青空市場(闇市)を仕切る暴力団に成長、新橋駅前の広大な露天市場は、ほぼ関東松田組の軍門に下り、一時は直系組員だけで100人、身内3000人ともいわれる勢力を誇った。
- 同年12月、松田義一は名門的屋・松坂屋五代目を継承。一介の愚連隊から的屋社会の公認の存在となった。
松田義一の愚連隊流のはねっ返りを封じたいとする親分衆と、親分衆に公認されたいという松田義一との双方の思惑が一致した結果の所産であった。
生井一家八代目・篠原縫殿之助の取り持ちによって、芝浦の料亭で多くの親分衆の集まる中、松坂屋五代目の襲名披露宴が執り行われた。
- 闇市での好景気が長くは続かないと思っていた松田義一は、合法的な事業への進出を画策。
- 1946年(昭和21年)3月、新橋駅西口の強制疎開地域広場に、闇市を収容する2階建て、500店舗入店予定の「新生マーケット」の建設を進めた。
新生マーケットの建設中、華僑の代表がマーケットへ100店舗の入店を要求。
華僑は日本人が扱えない人気の禁制品を扱っていたため、日本人の店が商売にならないと考え、要求を飲まない関東松田組は華僑側と一触即発の状態となった。
- 1946年(昭和21年)6月10日、破門中の舎弟・野寺富二が約束もなしに松田義一を訪ねて来て、20分程話をした後、突然、拳銃を発砲し松田義一は射殺された(渋谷事件)。享年36。
野寺富二が松田義一を射殺した理由は様々語られるが真相は不明。
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