川内組
二代目川内組(かわうちぐみ)は福井県あわら市に本拠を置いた暴力団で、元指定暴力団・六代目山口組の二次団体。2014年に解散。
略歴
初代
- 初代・川内弘は福井県三国町生まれ。愚連隊のリーダーを経て地元の暴力団幹部の盃を受け渡世入り。
- その後、福井市の博徒の親分の盃を受け、抗争事件に関与し服役。
- 出所後の処遇に不満を持った川内弘は幼馴染の坪川三彦?と川内組を結成する。
- 1963年、三代目山口組・菅谷組組長・菅谷政雄の舎弟となる。
- 川内弘は菅谷組傘下で「北陸の帝王」と呼ばれた。
- 1973年12月1日、川内弘は副組長・坪川三彦?を絶縁し、実弟の川内重信?を副組長に据えた。
- 1974年3月、静岡県富士宮市で、川内組傘下の後藤忠政組長率いる後藤組と、菅谷組傘下で丸井清組長率いる天心会富士宮支部との内部抗争が勃発。
菅谷政雄は舎弟頭の浅野二郎に処理を一任し、浅野二郎は丸井清に有利な裁定を下した。川内弘はこの裁定を不満として山口組本部に訴えた。
- 1975年2月9日、川内組舎弟頭・宮原省治?が、絶縁された坪川三彦?の子分・古賀祐次に猟銃で撃たれ重傷を負った。
川内 弘は坪川三彦?への報復を指示したが、舎弟頭・浅野二郎が川内弘と坪川三彦?を仲裁した。
- 同年6月、浅野二郎を交えて川内弘と丸井清の3者で話し合う段取りを取ったが、川内弘は浅野二郎に無断で福井に帰ったため電話で口論となり、菅谷政雄に川内弘の行動を報告、菅谷政雄が電話をかけたが連絡が取れなかった。
同月、菅谷政雄の舎弟・波谷守之が、浅野二郎に代わって川内弘を訪問したが面会を拒否。
同月、川内弘は浅野二郎と和解し、菅谷政雄に詫びを入れ対立は一旦収まった。
- 1976年、川内弘は、菅谷政雄に山口組直参への推薦を求めたが菅谷政雄は推薦しなかった為、映画プロデューサーを通じて山口組若頭補佐・山本広に直参昇格を求めた。
- 1977年1月14日、菅谷政雄は直参昇格を画策した川内弘を破門にした。
川内弘は山口組・井志組・井志繁雄組長を通じて、菅谷政雄に詫びを入れたが破門は解かれなかった。
- 同年2月、坪川三彦?は兄弟分である浅野組副組長・小山敏夫とともに浅野二郎を訪ね、浅野二郎は坪川三彦?を舎弟とした。
坪川三彦?は、川内組から破門されていた木村忠雄や福矢正栄、川内組組員・加納一恵らとともに「共進会」を結成。加納一恵は、川内弘に「逆縁状」を送付した。
- 山口組本部は浅野二郎に対し、「浅野二郎が坪川三彦を拾うならば、山口組は川内弘を拾う」という通達を出した。
これに対し浅野二郎は「坪川三彦は自分の舎弟ではなく、浅野組副組長・小山敏夫が兄弟分を応援しているだけである」と回答した。
- 同年3月1日、共進会は福井県福井市順化2丁目の小料理屋「あゆみ」を事務所として、小山敏夫らを招いて事務所開きを行った。
同日午後9時、川内組組員・人見秀之と、川内組・宮原組準幹部・石田直生が、共進会の事務所に乗り込み拳銃を乱射しようとしたが銃弾が発射されなかった。人見秀之と石田直生は警察に逮捕された。
- 共進会は事務所を「あゆみ」から坪川三彦?の自宅に移し、浅野組に川内弘への報復の許可を求めた。
小山敏夫や浅野組若頭補佐・首藤新司ら4人が協議の結果、共進会の報復を了承し、浅野組から共進会へ応援を送ることを決め、首藤新司が応援に行くことが決まった。
- 同年4月8日夕方、首藤新司は拳銃3丁を持参し、菅谷組・波谷組組員・延岡朝夫と、波谷組内藤島組準構成員・田中政治と共に、タクシーで福井県へ向かった。
- 同日、首藤新司、延岡朝夫、田中政治は、敦賀市のドライブイン「塩荘」で坪川三彦?と加納一恵と合流。5人は坪川三彦?の自宅に行き襲撃場所を福井県三国町(現・坂井市)の喫茶店「ハワイ」とした。
首藤新司は、持参した拳銃3丁を坪川三彦?に渡し試射を頼んだ。
- 同日夜、首藤新司、延岡朝夫、田中政治は、金沢の加納一恵の家に宿泊し、翌日は三国町松島の民宿「あらや」に移った。
さらに吉崎温泉の旅館「紫水館」に移り、3人は銃身を切った散弾銃と拳銃2丁を受け取った。
【三国事件】
- 1977年4月13日正午過ぎ、首藤新司は「ハワイ」を見張っていた加納一恵から「川内弘がハワイに入った」という電話を受けた。
首藤新司、延岡朝夫、田中政治の3人は、S&W回転式38口径を持参していた共進会会員・中川徳治の運転する車で「ハワイ」に向かった。
同日午後1時5分、首藤新司、中川徳治、延岡朝夫、田中政治の4人が、喫茶店「ハワイ」店内で川内弘を射殺。護衛の高嶋弘も銃弾を受け重傷を負った。
- 犯行後、首藤新司と中川徳治は、加賀インターチェンジから北陸自動車道に入り、パーキングエリアの公衆電話で警察に連絡し、パトロール中の警官隊に逮捕された。
同日夕方、延岡朝夫と田中政治は武生市で警察の不審尋問を受け逮捕された。
- この菅谷組が起こした破門者殺害という事件が原因となり、菅谷組は山口組から絶縁となった。
二代目
- 二代目組長・根本辰男は、山健組最高幹部から五代目山口組若中へ昇格。
- 2014年7月、六代目山口組では幹部まで務めたが、自身の引退をめぐり六代目山口組執行部と対立。結果として破門となり、川内組は解散した。
川内組系譜
初 代 - 川内 弘
二代目 - 根本辰男
二代目川内組組織図
組 長 - 根本辰男(六代目山口組幹部)
若 頭 - 平山 満(平山組組長)
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