相良富五郎
相良富五郎(さがらの とみごろう、別名・相良富吉)は幕末の侠客、博徒。相良一家初代。
略歴
- 静岡県榛原郡相良町の人。
- 相良町の大沢寺の記録に文久二戊八月二十九日、釋開道 波津村竹屋富吉とある。
- 金谷の轟政吉と兄弟分。
- 紺屋亀三郎と兄弟分。
- 武州五日市出身の安五郎という子分がいた。
- 遠州侠客伝に登場する。
- 天保6年3月2日、相良富五郎の賭場を関東岩五郎?の子分・常州無宿熊五郎が荒らし、富五郎の兄弟分の紺屋亀三郎が討ち果たした。紺屋亀三郎は当時18歳の秋野紺屋の倅で、13歳の頃轟政吉が亀三郎の度胸に惚れ込み、親分を持つなら相良富五郎だと言ったが、富五郎が秋野紺屋の倅を子分にするわけにはいかないが兄弟分の付き合いならばと盃をしていた。
- 天保9年2月頃、関東岩五郎?が伊豆下田から13艘の船で100余名の子分を連れて相良港に攻め込んできたが、応戦し退散させた。
この喧嘩を重く見た駿府代官所は安東文吉・安東屋辰五郎兄弟に目明しを申し付け、富五郎を召し捕らえるよう命じた。
- 天保12年春、安東文吉とその子分に江戸で捕らえられた。
- 富五郎は牢死したとされるが、毒殺されたとされる説もある。
- 文久2年9月29日、静岡にて没。行年不詳。
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