明石屋万吉
明石屋万吉(あかしや まんきち、通称・北ノ赤万、本名・小林佐兵衛、1829年または1830年-1917年)は幕末から明治の侠客、博徒。小林一家初代。
略歴
- 1830年(文政13年)、大坂・堂島中町船大工町の質屋「明石屋」の長男として生まれた。父は明石屋儀右衛門の養子明石屋九兵衛。
- 1863年、播州小野藩より十五人扶持足軽頭になるよう頼まれ、これを引き受ける。背景として公武合体派の一橋慶喜が摂海の警備を任され、諸藩も大坂の河川警護を幕府より命ぜられるなか、一万石の小野藩が堀川から尻無川河口までを警護するのは困難であり万吉の勢力を見込んだものとされる。
- 尻無川は伝安一家の縄張りであり、会津小鉄は万吉が守口弥三郎(伝安)からシマを借りる見届け人となり会津の印である大瓢箪を二つに割り、万吉の一門は北瓢箪(中割北瓢箪)を印とした。小鉄は、自分の子分の中でもお気に入りで、後に関西屈指の大物となる小林兵吉(大瓢箪)が大阪で渡世をはる際には明石屋のいる北を避けさせ難波に一家を構えさせたとされる。
- 1873年(明治6年)、消防請負制の導入にともない、当時の大阪府知事・渡邊昇の要請を受け、府内の消防における「北の大組頭取」に就任。自主的に火事の罹災者を自宅に保護するなどの活動にも取り組んでいた。
- 1882年(明治15年)からは、幕府から大阪府に移行した粉河町の「お救い所」の仕事に携わる。
- 1885年(明治18年)12月19日、堂島米相場などで築いた私財を投じて、小松原町に「小林授産場」を開設。浮浪者や生活困窮者に教育・職業訓練をおこない、社会復帰・自立を支援した。また、病人や身体障害者も収容した。創立時の収容人員は190人(男30人・女160人)という情報もある。
- 1909年(明治42年)の北の大火(天満焼け)では、当時79歳の佐兵衛が防火活動を率いて、大阪天満宮を火から守ったという。
- 1911年(明治44年)9月には、米相場の高騰で苦しむ人々のため、取引所へ乗り込んで相場を崩した。
- 晩年は、財産のほとんどを授産場の運営につぎ込んでしまい困窮したとも伝えられる。1912年(大正元年)12月17日、財団法人弘済会(大阪市立弘済院の前身)に授産場を売却して引退した。
- 1917年(大正6年)8月20日没。89歳。
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