助川一家
助川一家七代目(すけがわいっか)は茨城県日立市弁天町2-19-13に本拠を置く暴力団で、指定暴力団・松葉会の二次団体。
略歴
- 1836年、水戸藩九代藩主徳川斉昭の命によって助川海防城の築城がはじまった。
このとき、人夫方の頭領となって築城完成に尽力をしたのが、近村の人夫方下役支配置取締役の侍だった。
- 築城後に、この侍が刀を捨て博徒一家を興し自ら頭領となった。これが助川一家のはじまり。
- 創始者の侍は天狗党の乱で助川海防城が炎上した際に、一家一門をあげて消火につとめたが城の焼失とともに殉じた。
- その後、助川一家は大きくなったが、この侍の後を継ぐものがいなく、数人の貸元たちの合議制によって一家は成り立っていた。
- 初 代
- 明治末期になって、合議制で運営されていた助川一家をまとめ、滑川造酒が初代に就任。
- 二代目
- 初代・滑川造酒のもとで修業をした久野益義が二代目を継承。
- 昭和初期、二代目・久野益義は三代目を鈴木保三郎に譲り、上京し関根組と縁をもつ。
- 1953年、関根組最高幹部となった久野益義は、藤田卯一郎とともに松葉会の旗揚げに参画。
- 1959年、政治結社・松葉会発足時に、久野益義は総務会長に就任し六役の一人として活躍した。
- 三代目
- 三代目・鈴木保三郎は、戦争に召集されて外地で終戦を迎えた。
- 1945年、引き上げ船で帰国、戦後混乱期の助川一家の再建に力を尽くした。
- 1949年、鈴木保三郎は34歳の若さで病死。
- 四代目
- 四代目を継承した神山孝三は、松葉会六役の一人、和泉武志の舎弟だった。
松葉会旗揚げに参画した二代目・久野益義の縁もあり、助川一家は松葉会に加盟。
- 五代目
- 五代目・関靖夫は男7人女2人の9人兄弟であり、そのうち5人が助川一家入りした。
- 1968年、関靖夫が五代目を継承すると、弟の関喜久夫はその代行に就任し番頭役として支えた。
- 六代目
- 七代目
- 関孝司が七代目を継承。
- 2010年11月の四代目山健組事務所前で爆発物が爆発した事件の首謀者として、2015年10月に関孝司は逮捕された。
系譜
初 代 - 滑川平吉
二代目 - 久野益義
三代目 - 鈴木保三郎
四代目 - 神山孝三
五代目 - 関 靖夫
六代目 - 関 喜久夫
七代目 - 関 孝司
組織図
総 長 - 関 孝司(松葉会理事長)
最高顧問 - 関 喜久夫(松葉会最高顧問)
最高顧問 - 橋本一男(松葉会相談役・橋本組組長)
総長代行 - 高畠 勇
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更などで必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とし、それらを行った者に関しては厳重な処罰の対象とし、悪質編集者リストへ一定期間掲載させて頂きますのでご注意下さい。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧ください。
- 編集を依頼される場合は下記の【このページの編集依頼】または【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
【このページの編集依頼】