佐古野繁樹
佐古野繁樹(さこの しげき・1945年~1981年)は日本のヤクザ。初代草野一家若頭・初代大東亜会会長。
略歴
- 福岡県北九州市出身。生まれ育ちも福岡県北九州である。(小倉出身の説あり)金縁の眼鏡が特徴であった。年齢は30歳代と非常に若い幹部であるが、一家の中では別格級の人物であり地元でも評判が良かった。
- 1970年代後半、福岡県田川から初代草野一家田川支部長の天野義孝に引き連れられ、草野一家へ新たに加入した溝下組組長の溝下秀男(後に三代目工藤會会長・四代目工藤會総裁)が、本部へ挨拶に来た。大概名の知れた人物でも、通常初めて本部内での挨拶は緊張するのだが、この溝下の場合は初対面の大幹部佐古野繁樹に対し、挨拶するどころかソファーに座る佐古野の顔を覗き込むや「おんどれ、図体ばっかり大きいても、5年したら貴様を俺の下で鎖に繋いでやるき、これまで待っちょれ、こら」と凄んだようで、佐古野は「なにこら、若造」と立ち上がり、総長の草野高明に制止された。先程も述べたが初対面である。勿論、当時の佐古野は草野一家若頭で最高幹部であり、それに対し溝下秀男は、昨日今日一家に入って来たばかりの新参者である。本来ならその時点で破門にされても文句は言えない。しかし、溝下秀男は何故か草野一家幹部らから「あれは威勢がいい」と評価され、いつの間にか不思議と佐古野繁樹と仲良くなり、信頼関係を築いていったようである。
堺町事件
- 1981年(昭和56年)2月4日、北九州小倉の堺町にあるクラブ「美松」を出た前で草野一家若頭・大東亜会会長・佐古野繁樹と、工藤会理事長・矢坂組組長・矢坂顕が偶然鉢合せし、お互い口論の末、双方が拳銃を乱射、激しい銃撃戦となった。佐古野繁樹は矢坂組組員に撃たれ倒れながらも、2メートル程度の至近距離から矢坂顕を銃撃。二人とも全弾撃ち尽くし、その場で佐古野繁樹(事件当時36歳)と矢坂顕(事件当時52歳)の両名は出血多量で絶命した。
この「堺町事件」から、工藤会と草野一家の抗争は泥沼化し、当月だけで6件もの発砲事件が発生した。
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