清水一家
六代目清水一家(しみずいっか)は静岡県静岡市清水区庵原町138-10に本部を置き、静岡県焼津市八楠1-20-7に本家を置く暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の二次団体。旧五菱会→美尾組。
略歴
独立組織
- 幕末に遠州清水を中心に勢力を有し海道一の大親分と呼ばれた清水次郎長の一派に端を発する。
- 1843年、清水次郎長は喧嘩の果てに人を斬ると、江尻大熊らとともに出奔し無宿人となる。
諸国を旅して修業を積み交際を広げ成長した次郎長は清水港に一家を構えた。
- 1859年、尾張知多亀崎乙川において次郎長が保下田久六を殺害する。
- 1860年7月18日、子分の森石松が都田吉兵衛により殺害された。
- 1861年1月15日、駿河国江尻追分において森石松の仇である都田吉兵衛を殺害した。
- 1863年5月10日、天竜川において甲斐国の黒駒勝蔵と対陣した。
- 1864年6月5日、三河国の平井亀吉に匿われていた黒駒勝蔵を形原斧八とともに襲撃した。
- 1866年、荒神山の喧嘩に加わった。
- 1893年、清水次郎長が死亡すると筆頭子分・清水大政の直系である小沢惣太郎が二代目を継承した。
- 1915年、小沢惣太郎が死去。跡目不在となった。
- 1923年、関東大震災が起き、横浜港が壊滅的な打撃を受け代替港として清水港が注目された。
荷役の支援として神戸の斉藤仙太郎?率いる斉藤組が清水港に進出し、荷役を巡る縄張り争いが起こった。
- 1926年、小沢惣太郎の若衆であった岩崎市蔵?が斉藤組組員に刺殺された。
- 1942年、清水一家長老・田辺高之助の指名により増川仙右衛門の流れを汲む鈴木幸太郎が三代目を継承した。
- 鈴木幸太郎が死ぬと田辺高之助の孫・田辺武一が四代目を継承した。
- 田辺武一が三十代で死亡し、実弟の田辺金吾が五代目を継承した。
- 以来、独立博徒一家として存在した。
- 1966年11月13日、五代目・田辺金吾は清水一家の解散を決意し、清水市内の料亭「玉川桜」で解散式を行った。解散式には清水市長や次郎長の遠縁にあたる静岡大学教授など関係者170人が出席した。
美尾組
五菱会
清水一家
- 2007年2月28日、高木康男が清水一家の系譜を継ぐ正当な後継者として、また清水次郎長のネームバリューを利用する為、清水一家の五代目総長・田辺金吾に挨拶を済ませ、六代目を名乗り組織名も六代目清水一家に改称した。
- なお、高齢の田辺金吾に「今後の身の回りも大変なのでは」と高木康男は3,000万円を手渡しており、後に田辺金吾は地元記者に「高木はいい人間だ」と語っている。
- 地元住民からは、浪花節や小説映画の題材などにもなり、清水の観光資源となっていた「清水一家」の名跡が、現代の暴力団として復活する事でイメージダウンに繋がるとして反対運動が起こった。
- 2021年2月1日、高木康男は六代目山口組若頭補佐から舎弟に直る。
清水一家(次郎長一家)
▴ 詳細を表示
系譜
初 代 - 清水次郎長
二代目 - 小沢惣太郎
三代目 - 鈴木幸太郎
四代目 - 田辺武一
五代目 - 田辺金吾
六代目 - 高木康男
六代目清水一家組織図
総 長 - 高木康男(六代目山口組舎弟)
若 頭 - 高木明良(三代目美尾組組長)
舎弟頭 - 望月孝雄(二代目杉山組組長)
本部長 - 吉岡 宏(吉岡組組長)
若頭補佐・東京責任者 - 田嶋 聡(三代目陣内組組長)
若頭補佐 - 前田利一(二代目田辺会会長)
舎 弟 - 内野英機(内野組組長)
幹 部・総長秘書 - 槙野訓裕(槙野組組長)
若 中 - 平良勇次(二代目豊田組組長)
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正にご協力ください。
※誹謗中傷や悪戯、荒らし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧ください。
- 編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼してください。
運営宛に編集依頼する時は【メールで編集依頼】から依頼してください。
【このページの編集依頼】