三国事件
三国事件(みくにじけん)は、1977年4月13日に福井県三国町(後の坂井市)の喫茶店「ハワイ」にて、三代目山口組・菅谷組傘下組員ら4人が、元菅谷組舎弟の川内組組長・川内弘を射殺した事件。
背景と経過
- 川内弘は、幼馴染の坪川三彦?と川内組を結成し、組長に就任した。
- 1963年、川内弘は三代目山口組最高幹部・「ボンノ」の愛称で一世を風靡した菅谷組組長・菅谷政雄の盃を受け、舎弟として「北陸の帝王」と呼ばれた。
- 1973年12月1日、川内弘は、川内組副組長・坪川三彦?を絶縁し、後任に実弟の川内重信?を据えた。
- 1975年2月9日、絶縁された坪川三彦?の子分・古賀祐次が、川内組舎弟頭・宮原省治?を猟銃で銃撃し重傷を負う事件が発生。川内弘は坪川への報復を指示したが、菅谷組舎弟頭・浅野二郎が川内と坪川を仲裁した。
- 1976年、川内は菅谷政雄に山口組直参への推薦を求めたものの拒否し、映画プロデューサーを通じて山口組若頭補佐・山本広に直参昇格を求めた。
- 1977年1月14日、菅谷は直参昇格を画策した川内を破門した。
- 同年2月、坪川三彦?は兄弟分である菅谷組・浅野組副組長・小山敏夫とともに浅野二郎を訪ねて舎弟盃を求め、浅野二郎は坪川を舎弟とした。
坪川三彦?は、川内組から破門されていた木村忠雄や福矢正栄、川内組組員・加納一恵らと共に共進会を結成。この時加納は、川内弘に「逆縁状」を送った。
- 山口組執行部は浅野二郎に対し「浅野が坪川三彦を拾うならば、山口組は川内弘を拾う」と通達したが、これに対し浅野は「坪川は自分の舎弟ではなく、小山敏夫が兄弟分を応援しているだけである」と返答した。
- 同年3月1日、共進会は福井市順化2丁目の小料理屋「あゆみ」を事務所として、小山敏夫らを招いて事務所開きを行った。
- 同日午後9時、川内組組員・人見秀之と、川内組・宮原組準幹部・石田直生が、共進会の事務所に乗り込み拳銃を乱射しようとしたが不発で、2人共逮捕された。
- 共進会は事務所を小料理屋「あゆみ」から坪川三彦?の自宅に移し、浅野組に川内弘への報復の許可を求めた。小山や浅野組若頭補佐・首藤新司ら4人が協議の結果、共進会の報復を了承し浅野組から共進会へ応援を送る事を承認。首藤の派遣が決定した。
- 同年4月8日夕方、首藤は拳銃3丁を持参し、菅谷組・波谷組組員・延岡朝夫と、同藤島組準構成員・田中政治と共に、共進会の応援としてタクシーで福井県に向かった。
- 同日、首藤、延岡、田中は、敦賀市のドライブイン「塩荘」で坪川三彦?と加納一恵と合流。5人は坪川の自宅に行き襲撃場所を福井県三国町(現・坂井市)の喫茶店「ハワイ」に定めた。首藤は、持参した拳銃3丁を坪川に渡し試射を頼んだ。
- 同日夜、坪川以外の3人は金沢の加納の家に宿泊し、翌日三国町松島の民宿「あらや」に移動した。さらに吉崎温泉の旅館「紫水館」に移り、3人は銃身を切ったショット・ガンと、拳銃2丁を手にした。
- 同月13日正午過ぎ、首藤新司?はハワイを見張っていた加納一恵から「川内弘がハワイに入った」という電話を受け、延岡、田中と共に、S&W回転式38口径を持参していた共進会組員・中川徳治の運転する車でハワイに向かった。
同日午後1時5分、首藤、中川、延岡、田中の4人が、ハワイ店内で川内弘を射殺。川内の護衛の高嶋弘も銃弾を受け重傷を負った。
- 犯行後、首藤と中川は、加賀インターチェンジから北陸自動車道に入り、パーキングの公衆電話で警察に連絡しパトロール中の警官隊に逮捕された。同日夕方、延岡と田中は武生市で警察の不審尋問を受け逮捕された。
- 破門者の殺害という事実が明るみに出て、菅谷組は山口組から絶縁となった。
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