一和会
一和会(いちわかい)は兵庫県神戸市に本拠を置き、1984年6月13日から1989年3月30日まで活動した日本の暴力団。
略歴
- 1984年6月、山口組四代目跡目問題で山本広擁立に関わった側が、竹中正久四代目襲名を機に山口組を脱退。山本広を会長として「一和会」を結成。
分裂当初は7000人vs6000人と山口組より数の上で優勢だったが、切り崩しによって次第に劣勢に立たされていった。
武闘派・竹中正久四代目の怒濤の攻撃を前にして一和会は徐々に弱体化したが、密かに竹中正久暗殺を計画。
同年9月には暗殺部隊を結成し、竹中正久行きつけのマンションに部屋を借りるなど周到な準備を行った。
- 1985年1月26日、一和会常任理事・悟道連合会会長・石川裕雄が指揮し、一和会系二代目山広組若頭・後藤栄治、同組行動隊長・長野修一、実行犯の同組員・長尾直美?、田辺豊記?、立花和夫?により、収監前の竹中正久を襲撃した。
神戸の山口組新本部の上棟式後、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で竹中正久を銃撃。
四代目山口組組長・竹中正久、山口組若頭・豪友会会長の中山勝正、警護役の南組組長・南力が銃撃され、中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で翌27日に死亡した。
山口組はトップとナンバー2を失う事態となった。
これが山口組側からの激しい報復を招くことになる。山口組と一和会の抗争(山一抗争)の長期化で勢力は激減した。
- 1988年5月、一和会副会長兼理事長・加茂田重政が引退、加茂田組を解散した。
一和会会長・山本広宅に爆発物を用いた攻撃などもあり、その後数ヵ月のうちに最高幹部のほとんどが一和会を脱退するに至った。
- 1989年3月19日、山本広は神戸市の東灘警察署に出頭、自身のヤクザからの引退と一和会解散を表明し一和会は消滅した。
同年3月30日、山本広自身が稲川会本部長・稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れ謝罪。 山一抗争は終結した。
結果として山一抗争では山口組側に死者8人、負傷者17人、一和会側に死者17人、負傷者49人を出した。
組織図
会 長 - 山本 広(山広組初代組長・元三代目山口組組長代行)
副会長兼理事長 - 加茂田重政(加茂田組組長・元三代目山口組若頭補佐)
幹事長 - 佐々木道雄(佐々木組組長・元三代目山口組若中)
本部長 - 松本勝美(松美会会長、元三代目山口組若中)
組織委員長 - 北山 悟(後に幹事長代行。北山組組長・元三代目山口組若中)
風紀委員長 - 松尾三郎
最高顧問 - 中井啓一(中井組組長・元三代目山口組舎弟)
常任顧問 - 溝橋正夫(溝橋組組長・元三代目山口組若頭補佐)
常任顧問 - 白神英雄(白神組組長・元三代目山口組若頭補佐)
特別相談役 - 大川 覚(大川組組長・元三代目山口組若中)
特別相談役 - 井志繁雅(井志組組長・元三代目山口組若中)
特別相談役 - 坂井奈良芳(坂井組組長・元三代目山口組若中)
常任理事 - 加茂田勲武(政勇会会長)
常任理事 - 中村 清
常任理事 - 片山三郎
副本部長 - 中川宣治(中川連合会会長)
副幹事長 - 吉田好延
理事長補佐 - 加茂田俊治(神竜会会長・元三代目山口組若中)
理事長補佐 - 河内山正義(後に本部長)
理事長補佐 - 福野 隆
理事長補佐 - 浅野二郎(浅野組?組長)
理事長補佐 - 徳山三郎
事務局長 - 末次正宏
幹事長補佐 - 赤坂 進(赤坂組?組長)
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