堀 政夫
堀 政夫(ほり まさお、1925年-1990年10月25日)は長崎県佐世保市出身、日本のヤクザ・博徒。住吉連合会総裁。住吉一家五代目総長。四代目中里一家総長。港会常任理事。「お役者政」の異名を持つ。
略歴
- 地元学校を卒業後、十代後半に東京都港区白金に住み、一回り年上の高橋岩太郎の賭場を出入りしていた。当時の堀政夫は若く血気盛んだったようで、賭場周辺を徘徊する愚連隊を見つけては声をかけ、挨拶もせず抵抗する相手には問答無用で匕首で斬りつけ、徹底的に排除していた若者であったと、後に高橋岩太郎は言っている。
- 二代目住吉一家高輪・伊皿子貸元、井出六蔵親分との縁で渡世入り。
- 1950年の戦後、芝居一座などの興行主として東北一円を巡業。
- 1955年、井出六蔵の命で兄弟分の後藤基治は千葉県柏市に行き馬橋一家を襲名、堀政夫は30歳で千葉県野田市に行き中里一家の跡目を継いだと言われている。
- 1967年、住吉一家四代目・磧上義光から五代目襲名の指名を受け、解散した住吉会を引寄せ「住吉連合」を結成し代表に就任。堀政夫42歳である。
- 1982年、組織の刷新を断行し組織名を「住吉連合会」に改め会長に就任。
- 1988年、組織改革により住吉連合会総裁に就任。
- 1990年10月、東京都墨田区向島の病院にて肝硬変で死去。享年65歳。その葬儀には全国から2万人が参列したという。
人となり
- 日本のお笑い界に影響力を持ち、2021年現在は映画監督でもある北野武は、1986年12月、フライデー襲撃事件後、8カ月で復帰した際「復帰が早すぎる」と日本青年社に街宣をかけられていた。それを止める為に、仲裁者を入れず住吉連合会の堀政夫会長の元を単身で訪ね、土下座謝罪したという。後に北野武自身の著書にも述べられているが、北野武は堀政夫から、「あれ?わざわざ一人で?立場を考えないとダメだよね、俺からもよく言っておくから、まぁ先方(日本青年社会長小林楠扶)にね、一言謝れば」と論され、後日、やはり小林の元へ一人で出向き謝罪した。小林楠扶は、北野武に対しマスコミ側の過剰な取材や、出版社員の挑発行為を小林は問題視もしていた。怒られながらも励まされ、金銭要求など全く無かったと述べている。この一連の堀政夫の振る舞いが、後の北野映画の北野武自身の演技力に強く影響したらしい。
- 武力では無く人間性で組織を築いた人物でもあり、当時、総勢1万6千人を超す大住吉を率いる首領にもかかわらず、とても豪華とはいえない質素な一軒家に住み、金銭に対する強欲が無く、専用のリムジンに乗るのを嫌がり、大人数で歩くのを毛嫌いし、道の端を歩き、最高幹部である側近にさえ行き先を告げず、自ら切符を買い、単身で一般人と同じように手すりや吊革に摑まり、人の流れや四季の移り替わりを見て、それを楽しむかのように電車で移動していたという。現在ではまず考えられない「別格」な「本物」の庶民派親分でもある。
2021年現在、住吉会・関 功代表は、堀政夫直属の門下生でもあり十分熟知していると思われる。
逸話
- 「え?まーちゃんが(堀政夫)穏健派だと思ってるかもしれんがな、あー、そりゃとんでもない。あれ程、気性の荒い武闘派はいないよな、本来短気な男がな、調整役に徹して我慢してる姿見てりゃ、こっちが涙出てくるし辛くなってくるぁ」
※日本国粋会・六代目落合一家総長 高橋岩太郎 (某雑誌取材抜粋)
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