小滝文四郎
小滝文四郎(こたきの ぶんしろう、本名・漆山文四郎)は幕末の侠客。小滝一家。
略歴
- 現在の山形県南陽市小滝の人。
- 天保11年7月26日、文四郎こと音治の伜に生まれる。
- 文四郎の逸話として文四郎、二十歳(万延元年)頃、子分一人を連れて、山形まで曲馬を見に行った時、山形の親分株、桜一蔵(明治になって山形の警察に雇われて探偵になる)が見馴れない生意気な若者とでも見たのか、足で煙草盆を押してよこしたのを無礼な奴と鐡扇で一蔵の額を割り、それから大立廻りを演じ、一蔵の子分が大勢駆け付けるので、山形中の騒動となり、曲馬は初日でメチャメチャとなった。此の時より文四郎の名が近郷に広まった。
- 現南陽市赤湯温泉で、下り相撲を興行した時、相撲取りが料亭で何等かの事情で怒り出し、二階から手当たり次第に物を放り投げ、役人が捕りなやんだ時、小兵の文四郎が二階に上がって、話をつけ、三人の相撲取りに縄を掛け下りて来た。
小滝と最上境に五郡に跨って白鷹山頂にある虚空蔵山の祭礼は毎年四月十七日、に執り行っている。小滝植ノ山の郷土史家川井栄蔵の話によれば昔は小滝三人、最上の畑谷二人西置腸の荒砥一人の重立っ者が虚空蔵山の祭りを立てた。
つまり小滝は山の権利の半分を保有していた、祭礼にはこの三方から登山する人が賑ひ、運だめしと称して賭場が開かれる博奕祭りであった。何時のころか詳かではないが、勘右エ門という侠客が上杉藩の大切なお幕が紛失したのを捜し当て、その褒美に、虚空蔵山に半分公認の賭場を得たという。
勘右エ門の賭場では目明しが来ても盆ゴザの上に何かをかぶせた程度でお目こぼしになったという。それとこの祭りで畑谷の若者が米沢口から参詣した若い娘達に、いたずらしたとかで、小滝の若者とケンカとなり、嫉視のあまり其ケンカが毎年の例となった。
それで文四郎が二十三才の元治元年に村の若者の首領となって大ゲンカをして文四郎の食客、仙台の股旅であろう、助五郎という者が片腕を落とされて文四郎の宅で養生したが廃人となった。
- 文四郎は幼名豊治といい、三十四、五歳のころ重病で床に就いたが、明治十八年四十五歳で歿す。小滝の禅正院には墓は無い。
- 明治十八年十月六日没。行年四十五歳。墓所は山形県南陽市小滝の禅正院。
- 歴代文四郎の没年は以下の通り。
初代文四郎 文政三年九月七日歿
二代目文四郎 天保十五年十二月二十三日歿
三代目文四郎 慶応元年十二月二十三日歿 五十七歳-
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