大場久八
大場久八(だいばの きゅうはち、別名・森久八、本名・森久治郎)は幕末の侠客、博徒。大場一家初代。
略歴
- 三島の人。
- 伊豆国田方郡函南出身。
- 文化11年(1814年)10月2日、百姓・森栄助の長男に生まれる。
- 若い頃、甲州下吉田村の人斬長兵衛こと渡辺長兵衛の子分になり渡世人としての修業したと言われる。
- 甲州の竹居安五郎の四天王ともされる。
- 後に伊豆に戻り結婚をしているが、妻志津の弟が、東海道随一の貸元とされた丹波屋伝兵衛である。
- 伊勢原・大山寺(大山不動)、伊勢原・霊山寺(日向薬師)、南足柄・最乗寺、箱根・箱根神社、熱海・伊豆山神社、韮山・韮山神社、三島・三島神社の他沼津、吉原など12寺社を縄張りとし、伊豆国、甲斐国、相模国、武蔵国に子分3,000人を抱えた大親分であった。
- 嘉永2年(1849年)4月、35歳の時に、兄弟分である桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎、石原村幸次郎らと遠江国岡田村で決闘を行い、両名に深手を追わせた。ただし久八側も子分伊達五郎を討ち取られた。
- 同年8月、上野国の博徒の巨魁である大前田英五郎の暗殺を謀った御宿ノ惣蔵?を殺害し、英五郎と兄弟分になった。この関係で、後に大前田一家の江戸屋虎五郎の舎弟である保下田久六が清水次郎長に殺された際には、富士の大宮まで軍団を動員した。
- 江戸湾のお台場を請け負った人物。
- 嘉永6年(1853年)、品川台場の工事人足の間で賃金不払いによる紛争が起こると、天野海蔵を介して江川代官から請われ、その懐柔役として働いた。
久八の採った方法は、人足に毎度食と日当を提供し、銭樽の懸賞を付けて士気を上げるというものだったと言う。この時の働きにより、人足たちから「台場の親分」と尊敬され、これに出生地に近い「大場村」が混同されて「大場久八」と呼ばれるようになった。
- 大前田英五郎、丹波屋伝兵衛とともに上州系三親分と言われた。
- 兄弟分には大前田英五郎(英五郎の舎弟とも)、岩淵源七。
- 弟分には江尻大熊、保下田久六、江戸屋虎五郎、子浦鶴吉ら。
- 正伝 大場の久八あり。
- 明治維新後玉屋佐十郎に跡目を譲り博徒を引退。
- 明治25年12月3日、山梨県都留市谷村の弁達旅館で歿す。行年79歳。墓所は静岡県田方郡函南町間宮の広渡寺。
舎弟・子分(諸説あり)
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