向後 平
向後 平(こうご たいら、本名・向後嘉豊 1916年 - 1956年3月6日)は日本のヤクザ、博徒。住吉一家・向後初代。
人物
略歴
- 1916年(大正5年)、愛知県名古屋で生まれた。
- 1932年(昭和7年)、地元の学校を卒業し東京芝にある沖仲仕荒井組に入る。ここで後の住吉会最高顧問・浜本政吉と出会い舎弟にした。
- 1939年(昭和14年)、阿部重作から盃を受ける。
- 1949年(昭和24年)、向後は阿部重作の芝浦事務所の責任者から高円寺へ住まいを移し、向後組を結成。その後は山手線~中央線沿線の新宿、八王子、埼玉の大宮まで手を伸ばし勢力を拡大していった。「もっともヤクザらしいヤクザ」と言われ、昔ながらの力でのし上がるヤクザであった。阿部重作の跡目を担う立場でもあった。
浅草妙清寺事件
- 1956年(昭和31年)3月6日午後14時ごろ、三代目住吉一家・大日本興行・高橋輝男らが台東区北清島町72の妙清寺で、大日本興行幹部・箭内武治の葬儀を執行中、同じく住吉一家の向後平が子分数名と車で乗りつけ焼香台に上がり、いきなり正面に座っていた高橋輝男とその子分の同社専務・桑原優ら参列者側に向け拳銃を乱射した。
高橋輝男らは拳銃を持ち出して応戦し、その距離2メートルの至近距離で全弾発射する壮絶な撃ち合いとなった。
高橋輝男は心臓に1発、桑原優は下腹部などに5発、向後平は下腹部に数発の銃弾を受け、高橋輝男、桑原は文京区駒込千駄木町の日本医大付属病院に、向後平は台東区浅草雷門鈴木外科に収容されたが3人とも収容先の病院で死亡が確認された。
この間、葬儀に参列していた芝浦高木組・泉海陸作業会社社長でもあり三代目住吉一家総長・阿部重作は、乱闘を止めようとして右中指を撃たれ指を切断、全治1ヶ月の重傷を負った。
住吉一家内である大日本興行の告別式の席上において、同一家の幹部同士が二派に分かれて激しい銃撃戦を演じた。しかも相果てた向後平と高橋輝男はともに同一家の大幹部で、制止しようとして傷を負った阿部重作は、言うまでもなく住吉一家の三代目総長である。
当時を知る親分によれば、告別式が終わり、後片付けをしていた時に突然起こった事で、何がなんだか分からないうちパーンと銃撃戦が始まったという。わずか数分間ほどの出来事で、阿部重作の他、止めに入った某親分も頭を銃把で殴られ軽傷を負った。
逸話
- 当時の不良グループや愚連隊は向後平に狙われたら腹をガス抜きで一文字に裂かれ、簀巻きにされ芝浦の海深くに沈められる、と伝えられていた。
覚悟を決めての決戦か、降参するかのどちらかを選ばねばならなかったようである。
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