浅野会
八代目浅野会(あさのかい)は愛知県名古屋市千種区日進通1-17-2に本部を置き、愛知県犬山市犬山西古券38-1に本家を置く暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の三次団体。上部団体は三代目弘道会。
略歴
- 前身は代官町一派、本多会・浅野会→大日本平和会・浅野会→運命共同会・中京浅野会。
- 昭和20年12月、浅野大助が愚連隊として一派を興す。名古屋市代官町に本拠を置いたため代官町一派(だいかんちょういっぱ)または協立クラブと呼ばれた。
- 数年にして構成員700名を越す勢力となった。
- 昭和28年、浅野大助は東三河の暴力団の揉め事を機に、代官町一派幹部・河澄政照を派遣した。河澄政照は豊橋市に住所を移し代官町一派河澄派を結成した。
- 河澄政照は豊橋市の三虎組・古溝派二代目・浪崎重一の継承披露に呼ばれなかったことを口実に宴会場に殴り込みをした。
- 昭和35年、浅野大助が稲葉地一家との抗争で射殺される。
- 筆頭幹部・伊藤治一が二代目を継承。
- 浅野会と改称し、浅野大助が神戸・本多会の舎弟であった縁より本多会に加入。
- 河澄政照は東三河の統一を図り、彦坂組、三虎組、豊橋熊屋?、平井一家、小桜組などへ団結を呼びかけ、昭和37年5月愛豊親和会を結成した。
- 会長に当時最大勢力の三虎組の長老をすえ、副会長に浪崎重一、理事長に河澄政照が就いた。
- 同年12月、河澄政照が会長、副会長兼理事長に浪崎重一が就いた。
- 河澄政照と浪崎重一は対立しており、浪崎重一を除名し追放。浪崎重一は大阪に逃れ山口組・一心会に加入し浪崎組を結成した。
- 昭和39年2月、浪崎重一は愛豊親和会を襲撃した。
- 三代目の頃までは大日本平和会(旧本多会)に加入していたが、独立組織となり中京浅野会と改称。
多三郎一家や江戸丸一家、三九郎一家など伝統ある博徒も傘下にしていた。
- 運命共同会に加盟。後に運命共同会は中京五社会に参画。
- 名古屋抗争後、事実上分裂。浅野会、今村組、多三郎一家等に分裂し、山口組系や稲川会に加入した。
- 六代目浅野会として弘道会加入時に池呂清は引退した。
- 七代目体制時に池呂清が最高顧問として復帰。
- 2016年3月、八代目田中明治らが、三代目弘道会本部前の路上で一般人の乗った乗用車を停車させ、胸ぐらを掴んだとして暴力行為等処罰に関する法律違反の疑いで逮捕された。
抗争状態にある神戸山口組側の組員と勘違いしたとされている(※)。
系譜
初 代 - 浅野大助
二代目 - 伊藤利一(伊藤治一)
三代目 - 加藤満男
四代目 - 今村禎宏こと李聖一
五代目 - 池呂 清(七代目浅野会最高顧問)
六代目 - 太田雅巳(弘道会舎弟)
七代目 - 中村静夫(弘道会若中)
八代目 - 田中明治
八代目浅野会組織図
会 長 - 田中明治(三代目弘道会若中)
若頭補佐 - 加藤 勝(四代目高木組組長)
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