菅谷政雄
菅谷政雄(すがたに まさお、1914年-1981年11月25日)は元三代目山口組若頭補佐、菅谷組組長。
略歴
- 1930年頃から頭角を現し、数十人から数百人規模の愚連隊を形成。国際ギャング団と呼ばれた。
- 1946年から1959年まで13年服役、その仮出所後の同年11月、三代目山口組組長・田岡一雄の盃を受けて山口組の若衆となり、菅谷組を結成。
- 1960年、明友会事件後、菅谷組舎弟頭・浅野二郎(後の浅野組組長)が大阪に事務所を構え、菅谷政雄も大阪にいる時間が長かったとされる。
- 大阪では誠会(後の二代目小車誠会)を率いる川口義昌を舎弟分として在阪勢力を驚かせ、有名な博徒でもある波谷守之とも知り合った。
- 後には業界の老舗である大阪の酒梅組四代目・中納幸男と五分兄弟盃を交わしている。
- 1961年から1964年頃にかけて菅谷組は神戸、大阪、和歌山、福井、石川、栃木、福島、愛媛、福岡、熊本に進出し、最盛期は構成員1200人を擁した。
- 警察論文集によると「麻薬暴力団」とされる菅谷組は、福島、栃木、四国などで密売組織を作り数度にわたり覚醒剤事犯を起こしている。
また経済力も強く、1974年に出資法違反で起訴された際には年間20億円を超える収入があったことが明らかになっている。
- 1963年、山口組の集団指導体制が発足すると若頭補佐に就任。
- 同年、川内弘を舎弟にした。
- 1971年、梶原組組長・梶原清晴の急死を受けて、山健組組長・山本健一が若頭に就任する際には、互選で選出された山広組組長・山本広に対して、若頭断念の説得工作などを行った。
- 1977年4月13日、菅谷組舎弟・川内組組長・川内弘の本家昇格工作を巡って内部抗争を起こし、菅谷政雄の命を受けた襲撃部隊が川内弘を射殺する事件が発生。
この事件を重要視した山口組執行部は菅谷政雄を絶縁とした。
- 絶縁された後も菅谷組は解散せず存続するが、次第に離散する者が増えた。
- 1978年、菅谷政雄が収監されるに至って勢力はさらに減少していった。
- 1981年、出所した菅谷政雄は波谷守之に相談しに行き、菅谷組の解散を進言される。
- 波谷守之と浅野二郎は、菅谷政雄が癌に侵されていて、余命が長くないことを医師から伝えられていた。余命をカタギとして穏やかに暮らして欲しいと願っての進言だった。
- 同年6月、菅谷政雄は2人の進言を受け入れ、菅谷組の解散を決断し、田岡一雄の元に「長いこと親不孝しました」と詫びを入れカタギとなった。
- 同年11月25日、67歳で死去。
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