極政組
四代目極政組(きょくせいぐみ)は福岡県中間市中鶴1-25-12に本部を置く暴力団で、指定暴力団・五代目工藤會の二次団体。前身は溝下組→極政会。
略歴
- 1961年、溝下秀男が地元中学を卒業し、北九州市門司を本拠に大長健一が率いた愚連隊・大長組へ入門した。
- 1970年、大長健一が殺害されると、溝下秀男は24歳で愚連隊の溝下組を結成。
- 1978年12月、草野一家田川支部長・天野義孝と溝下秀男が盃を交わし、率いていた溝下組ごと草野一家に加入した。
- 1979年9月、溝下秀男が草野高明の舎弟となり、組織が溝下組から極政会へと改称される。
溝下秀男は草野一家の勢力拡の大きな原動力となり、のちに草野一家若頭となる。
- 1987年6月、草野一家と工藤会は抗争を重ねたが、恩讐を超えて大同団結し再統合、名称を工藤連合草野一家と改めた。工藤玄治は総裁、草野高明は総長に就任した。
- 新井秀夫(草野一家総長代行)、溝下秀男(草野一家若頭)、本部長・野村悟(工藤会理事長)の様に草野一家出身者が重要ポストを占め、代紋も草野一家の物が使用された。これにより工藤会9団体206名、草野一家26団体628名の合計35団体、834名という九州一の大組織が誕生した。
- 1990年、溝下秀男が工藤會の三代目会長に昇格すると、江藤允政が極政組の二代目を継承。
- 2008年7月1日、溝下秀男が急死。
兼ねてより三代目工藤會内部においては旧草野一家系と旧工藤会系とで対立があり、溝下秀男の死後、旧草野一家系溝下派の有力者が次々と何者かの手により殺害されていく。
- 同年7月から篠崎組組長・篠崎一雄(射殺)、末松勝巳(射殺)、津川組相談役・安高毅(射殺)、徳竜組組長・徳本竜吾(射殺)と続いた。
- 同年8月、二代目極政組組長の江藤允政は、当時工藤會組織委員長・警護隊長を務め溝下秀男の側近中の側近だったが、もう少しで2年間の服役を終える収監中に突然と四代目工藤會から除籍処分となり強制的に引退させられる。
後継は二代目極政組若頭・今田雄二が三代目組長となった。
長期服役ならともかく、代替わりを服役中に行うのは異例中の異例であり、通常は当代が関係者に十分な根回しをしてから行われるのが通例である。さらに一連の事件中で今田雄二ら主要幹部12名は、組を脱退しようとした組員を集団で暴行したとして逮捕監禁致傷容疑で逮捕されており、極政組では幹部が社会不在かつ当代が服役中に代替わりが行われる事態となった。
- なお、江藤允政に対する工藤會四代目・野村悟、理事長・田上文雄の対応は破門であり、事実上四代目田中組が溝下派を制圧した瞬間でもある。
三代目工藤會会長・溝下秀男が亡くなり、草野一家出身で三代目工藤會会長代行を務めた天野義孝も亡くなるなど、草野一家出身の大物親分が鬼籍に入り無縁ではないだろう。
- 2012年7月8日、福岡県筑紫野市光が丘3のマンション玄関ロビーで、引退してきた二代目極政組組長・江藤允政が至近距離から3発撃たれ急死した。
系譜
初 代 - 溝下秀男(初代溝下組組長・初代極政会会長・三代目工藤會会長)
二代目 - 江藤允政(三代目工藤會執行部組織委員長)
三代目 - 今田雄二(五代目工藤會常任相談役)
四代目 - 内蔵成喜八
四代目極政組組織図
組 長 - 内蔵成喜八(五代目工藤會理事長補佐)- 勾留中
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