松田芳子
松田芳子(まつだ よしこ 旧姓・松永芳子 1917年-1957年10月)は日本のヤクザ。的屋系暴力団・二代目関東松田組元組長。戦後初の女組長として名を馳せた。
略歴
- もとは神奈川県横浜市山元町出身。富山県出身。
- 本牧のチャブ屋(外国船員相手の高級遊郭)「東亜」に勤め、常に№1の座を保っていたが、プライドも高く、気にいらない客は絶対にとらなかった。
- 芳子は美人として知られるが、妹のルミは芳子にもまして目の覚めるような美女であったという。
- 妹のルミは、腕に文字で「流れ星」の刺青を彫り、“流れ星のルミ”という異名を持つ。
- 妹のルミは「カッパの松」と呼ばれ、東京新橋の青空市場、闇市を取り仕切っていた松田組の親分・松田義一と結婚したが、松田義一が服役中に妻・ルミが肺結核で死去。
- 1942年(昭和17年)暮れ、松田義一が出所。ルミの喪が明けた後、姉である芳子が松田義一の後妻に迎えられた。
- 1945年(昭和20年)、松田義一が芝西久保桜川町に自宅兼事務所を置き、愚連隊・関東松田組を結成。
- 同年12月、松田義一が名門的屋・松坂屋五代目を継承。一介の愚連隊から的屋社会の公認の存在となった。
第二次世界大戦後に荒廃した新橋一帯の青空市場(闇市)を仕切る暴力団に成長、新橋駅前の広大な露天市場は、ほぼ関東松田組の軍門に下り、一時は直系組員だけで100人、身内3000人ともいわれる勢力を誇った。
- 闇市での好景気は長くは続かないと思っていた松田義一は、合法的な事業への進出を画策。
- 1946年(昭和21年)3月、新橋駅西口の強制疎開地域広場に、闇市を収容する2階建て、500店舗入店予定の「新生マーケット」の建設を進めた。
新生マーケットの建設中、華僑の代表がマーケットへ100店舗の入店を要求。
華僑は日本人が扱えない人気の禁制品を扱っていたため、日本人の店が商売にならないと考え、要求を飲まない関東松田組は華僑側と一触即発の状態となっていた。
- 1946年(昭和21年)6月10日、破門中の舎弟・野寺富二が約束もなしに松田義一を訪ねて来て、20分程話をした後、突然、拳銃を発砲し松田義一は射殺された(渋谷事件)。
野寺富二が松田義一を射殺した理由は様々語られるが真相は不明。
- 同月16日、松田義一の妻・松田芳子は、当時31歳で戦後初の女組長として関東松田組を引き継いだ。松田芳子の活躍は当時、新聞や雑誌でも取り上げられた。
- 関東松田組の状況を組織の弱体化とみた華僑側勢力は、その権利の奪取を企て、マーケット建設の現場事務所を襲撃した。
関東の親分衆からの助っ人も集まり、露天商組合や地元商店主からの協力も取り付けて防備を固めた。その総数は2000人ともいわれる。
- 10台近くのトラックに分乗して、再度の襲撃にやってきた華僑側勢力に対し、横流しの航空機用機関銃を乱射し、撃退に成功した。
- 同年8月、建坪約2000坪ほどの日本国内最大の闇市を商店街化させた「新生マーケット」が完成。
- 1947年(昭和22年)、新生マーケットが火災によって焼失。
- 同年7月16日、引き続き華僑側勢力との激しい武力抗争、新生マーケットの焼失など、組の基盤を揺るがす出来事が続いたため、松田芳子は40人の直属を集めてカタギに戻る宣誓式を行った。
- 関東松田組の解散後、郷里・富山に帰ったり、深川の料亭の帳場ですわったりしていた。
- 1957年(昭和32年)10月、大阪で死去。享年39歳。
ヒロポンでは効かず、麻薬を打ち続けたのが原因といわれる。
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