松井本家
松井本家(まついほんけ)は東京都に本拠を置く的屋系暴力団。
略歴
- 松井本家は松井源水が興す。先祖は越中国の人で、反魂丹という薬を創製したという。
- 昭和まで代々十七代松井源水の名跡が伝えられた。
- 四代目が延宝・天和(1673~84年)の頃、江戸に出てこの薬を売り広め、その宣伝に初めは枕返しなどを演じていたが、流行の居合抜きを取り入れて客を集めるようになった。
この頃から歯磨粉や歯薬も売るようになり、のちにはそのほうが有名になった。
- 享保(1716~36年)の頃、博多独楽を取り入れ、曲独楽を演じるようになった。
- 松井源水は浅草奥山に見物人を集め、曲独楽の芸を見せていた。
源水の芸は「枕返し」といい、多数の木箱の枕を積み重ねて、手の上で様々な形に操るというものであった。また、「源水コマ廻し」といって、博多から伝わった曲独楽に工夫を加えて編み出した、1本の麻紐で目方5貫500匁(約3kg)の大独楽を軽々と回す芸も披露していた。
- 享保11年(1726年)11月13日、将軍世子、家重(後の9代将軍)が浅草寺にお成りの時に、松井源水が本堂において曲独楽や枕返しの芸を上覧したことから、その後、「御おなり成御用」の符を拝領し、代々浅草田原町の自宅に御用の高張提灯を掲げ、威勢を誇っていたという。
- 享保20年以前に源水は歯磨き売りに転じた。
- 十三代目は1866年(慶応2年)に曲独楽の芸をもって洋行興行も行っている。
- 代々江戸・浅草奥山に居住していたが、明治期には凌雲閣の下の入歯の店の前に出て呼び込みの芸を演じた。
- 浅草蔵前の長井兵助とともに大道物売りの芸人として代々有名であった。
- 天保2年(1831年)、万八楼にて開かれた大食い大会で、何代目かは不明であるが松井源がこの大会に参加し、生豆5合と水1升という記録を残した。
しかし、源水は帰宅後に激しい苦痛に襲われ一昼夜悶絶、最期を覚悟した源水は最後の死力を振り絞り一子に奥義の秘曲を伝授すると死亡したという記録が残る。
- 十五代目松井源水は天保5年(1834年)生まれ。豪農松本勘三郎の長男で本名は芳五郎。
十四代目松井源水の門に入り、曲独楽の芸を継いだ。
文久3年、十五代目を襲名。明治3年から7年間欧米を巡業。
明治40年(1907年)1月26日死去。74歳。
系譜
組織図
松井源水(戒拾四代目)
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