辺見貞蔵
辺見貞蔵(へみの ていぞう、邊見貞藏、逸見貞藏、本名・三田貞蔵、幼名・三田金次郎 1820年 - 1912年10月12日)は幕末から明治の侠客、博徒。生井一家二代目。
略歴
- 1820年(文政3年)8月または文政9年8月17日、下総国葛飾郡上辺見村(現在の茨城県古河市上辺見)の名主・三田彌四郎の次男として生まれる。
- 20歳の頃、博徒になることを決意。間々田宿・間之川一家、田中屋慶蔵の子分になろうとしたが、慶蔵から生井弥兵衛に推薦され、生井一家を名乗る。
- 少年の頃から武を好み、樹木を相手に自己流の剣を学び、17、18歳の頃には近郷で辺見貞蔵に勝てる者はいなくなり、いつのまにか周りには大勢の舎弟や子分ができた。
- 22歳の頃、辺見村を訪れた小野派一刀流の達人・中西忠太子定に剣術を叩き込まれている。中西忠太子定と初めて会った辺見貞蔵は、ぜひ一手なりもと、両手をついて教えを請い試合をしたが中西忠太子定に手も足も出なかった。中西忠太子定は辺見貞蔵の家に逗留し、辺見貞蔵が建てた道場で辺見貞蔵にみっちり剣術を叩き込んだという。中西忠太子定は一年余りで辺見村を去ったがその時、辺見貞蔵に対して「私がお前に教える技はもうない。自分で心を磨くことだ」と諭して江戸へ旅立った。
- 生井の升屋弥兵衛跡目。
- 生井一家磯部の藤井庄蔵、諸川の森田龍助、中谷の小野文次、間之川一家・海老瀬の松本新五郎、下河原田の細谷卯吉、富田の大橋金太郎墓に古河・三田貞蔵とある。
- 貞蔵が生涯を通じて兄貴と呼んだ男は二人だけ、間々田宿の間之川一家・田中啓蔵と水戸の在鯉淵一家・仲野与重?である。
- 博奕打ちの博奕知らずといわれるぐらい博奕はしなかった。
- 1912年(大正元年)10月12日、93歳で死去。墓所は茨城県猿島郡総和町上辺見の三田家墓地。
- 貞蔵跡目は寳田多三郎。
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