石井隆匡
石井隆匡(いしい たかまさ 異名・石井唯博 本名・石井進 1924年1月3日-1991年9月3日)は日本のヤクザ。指定暴力団・稲川会二代目会長。横須賀一家五代目総長。
人物
- 石井唯博とも名乗り、経済ヤクザと呼ばれた。
- 1924年、神奈川県横須賀市に生まれる。成績優秀で旧制鎌倉中学に進学するが中退。その後、横須賀の海軍通信学校をトップクラスで卒業し、当時八丈島にあった人間魚「回天」隊基地の英文通信兵として終戦を迎えた。
略歴
- 1946年、渡世入り。
- 横須賀の石塚儀八郎のもとでヤクザのいろはを学び、石塚組の代貸となる。
- 1963年、横須賀一家の五代目を継承。
- 1969年、「巽産業」を設立し、経済界に進出する暴力団の先駆けとなる。
- 同年、賭博事件などに関与し起訴され懲役5年の実刑判決を受けて服役。
- 1972年10月、稲川一家と三代目山口組との親戚縁組のため、稲川一家理事長として山口組若頭・山本健一(山健組組長)と五分の兄弟盃を交わす。
- 同年12月、稲川聖城によって稲川会が結成されると引き続き理事長に就任。
- 後に稲川会会長補佐に就任。
- 1985年、神戸で行われるユニバーシアード大会を無事に行えるように、山口組と一和会による山一抗争を2ヶ月ほど休戦させる「ユニバーシアード休戦」に尽力。
- 同年10月、稲川会二代目会長に就任。
- 1986年頃、かねてから政商・小佐野賢治のようになりたいと公言していた石井隆匡は、政財界とのパイプを作り上げ力を発揮。その一つとして、岸信介の依頼で平和相互銀行の乗っ取りに関わる。当初は平和相互銀行側に立場を置いていたことにも構わずこれを実行、多くの謝礼と平和相互銀行の岩間カントリークラブ開発の所有権を獲得した。
- 1987年2月、一和会傘下の白神英雄組長が射殺され、一週間後に山一抗争は終結。石井隆匡は山一抗争の終結に注力した。岩間カントリークラブを元に、東京佐川急便社長・渡辺広康からの多額の資金集めに成功した。
- 1989年、ゴルフ場会員資格保証金預かり証と引き替えに野村證券・日興證券を取り引き窓口に東急電鉄株の買い占めを行い、約8億円の利益を獲得。東京佐川急便事件でも暗躍した。
- 1990年10月、病気により、稲川裕紘に稲川会三代目を譲って引退。
- 1991年9月3日、病死。東京都大田区の池上本門寺で葬儀が執り行われ、全国の組織トップを含め参列者は6000人以上であった。
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