宅見勝
宅見 勝(たくみまさる 1936年6月22日-1997年8月28日)は日本のヤクザ。指定暴力団・五代目山口組元若頭、初代宅見組組長。
略歴
- 1956年、博徒・土井組系川北組幹部と親しくするうちに川北組若衆への誘いを受け19才で渡世入り。
- 1962年、土井組が抗争などによる警察の集中取り締まりを受け解散。
山口組
- 1963年9月、大阪ミナミで最大勢力を誇っていた三代目山口組・南道会傘下、福井組組長・福井英夫から若衆の盃を受ける。
- 3年後、実力を認められ福井組若頭補佐となり、翌年には四日市競輪場の利権を獲得する為、三重県鳥羽市に宅見組を創設。
- 1970年に福井組若頭に昇格したことを機に大阪ミナミの千日前に本拠を移し、三代目山口組若頭・山本健一(山健組組長)と親しくなる。
- 1975年、「大阪戦争」では武闘派として活躍するなど貢献。
「大阪戦争」を参照。
- 1977年、山本健一の推薦により三代目山口組組長・田岡一雄から盃をもらい山口組若中に昇格。
- 1982年に山本健一が病死。これをきっかけに山口組四代目跡目問題が浮上し、宅見勝は竹中正久を四代目に推すグループに属した。
のちの山口組組長・竹中正久が若頭に就任した同年、宅見勝は若頭補佐に就任。
- 1989年、五代目山口組発足とともに山口組若頭に就任。渡辺五代目による山口組「最高顧問」の新設をはじめ、新人事には宅見勝の意向が強く反映されていた。
- 1996年7月10日、当時五代目山口組若頭補佐だった中野会会長・中野太郎が、行きつけの理髪店で四代目会津小鉄組員に銃撃され組員2名が射殺される「中野会会長襲撃事件」が発生。
同日、四代目会津小鉄若頭・図越利次ら最高幹部が山口組総本部を訪れ、会津小鉄系組員が中野太郎を襲撃したことを詫びた。
山口組若頭だった宅見勝は、事態の拡大を防ぐべく図越利次らの謝罪を受け入れ、当事者の中野太郎と一切の事前協議することなく和解。
中野太郎は当事者であった自身を抜きにした宅見勝の裁定に激しい不満を抱き、両者が激しく対立し、宅見勝への報復として射殺事件につながった。
さらに当時の宅見勝は五代目山口組組長・渡辺芳則の失脚を策動しており、そのことが渡辺芳則の側近を自認する中野太郎の憤激を招いたとされている。
「中野会会長襲撃事件」を参照。
- 1997年7月、当時の中野会若頭補佐・吉野和利が総指揮をとり、東京と大阪の中野会傘下組織から、宅見勝の動向を探るための偵察部隊と襲撃するための襲撃部隊をそれぞれ選抜。
- 同年8月28日午後3時20分ごろ、山口組総本部長・岸本才三(後に最高顧問)と、副本部長・野上哲男(後に最高顧問)と共に、昼食を摂るためJR新神戸駅に隣接する新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジの一番奥まったテーブルに着いた。
- その直後、中野会傘下の襲撃部隊が宅見勝を銃撃。
宅見勝は38口径と45口径の拳銃で計7発の銃弾を受け、救急車で神戸市立中央病院に緊急搬送されたが、約1時間後の午後4時32分に同病院で死亡した。
同席していた岸本才三、野上哲男は無事だった。
- 事件から3日後に中野会は破門。
- 事件当時、隣のテーブルに座っていた一般人の歯科医師の男性が、流れ弾に当たって重傷を負っていたが、6日後の9月3日に死亡した事で絶縁となった。
「宅見若頭射殺事件」を参照。
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人物概要
- バブル期を通して金融や不動産などのフロント企業を使い蓄財した2000億円とも言われる豊富な資金を背景に、五代目山口組発足の立役者として関与。
- 山口組若頭として、近代的な組織に創り上げ「山口組の金庫番」とも呼ばれた。
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