信濃屋喜兵衛
信濃屋喜兵衛(しなのやの きへえ、本名・吉田久蔵)は幕末の侠客、博徒。信濃屋一家初代。
略歴
- 尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野)の人。
- 享和2年(1802年)生まれ。
- 幕末の頃、信濃生まれの喜兵衛は丹羽郡に来て博徒の親分となり一家を興し出生地の名を取って信濃屋一家と称し、初代の親分となった。
別説では丹羽郡前野村吉田一族の出で、博徒となったことから一族から追放され無宿人となった。
- 多数の有力な子分を養うと同時に東春日井郡において瀬戸一家と覇を争った北熊一家の親分・近藤実左衛門と兄弟分の縁を結びこれと相提携して大いに発展し、信濃国塩尻宿から中山道鵜沼宿並びに名古屋城北地方の広大な費場所を有した。
- 奥町小太郎、犬山大五郎、浅野常十、柏森己代五郎、五明常八、前野松右衛門、船橋由兵衛、村久野庄左衛門の八天下と呼ばれた配下の他、身内に名古屋・広見屋権太郎、一宮・大塚浜五郎、笠松・奥村仙太郎、尾張松山・松山久蔵、鵜沼宿・松原栄次郎?、比恵・木村喜代松?らがおり、美濃下麻生・白滝秀五郎、イノシリ・上田屋五右衛門らも舎弟とされる。
また、元大阪の人で薬売りの松前屋泰助?、前野村の薬売り熊屋兵助?、前野村の勇三郎、津島伝蔵?(清須伝蔵)、美濃太田宿・安藤龍作、細久手宿・吉田吉五郎、御嶽衆・平田亦五郎らの名前もある。
- 安政元年頃、桑名の黒田屋勇蔵と出入りあり。北伊勢の大親分黒田屋の縄張りに信濃屋一家が乗り込み賭場を開帳。イカサマ等のいざこざから信濃屋喜兵衛が黒田屋の者3人を斬り殺す。信濃屋喜兵衛は凶状持ちとなり関小左衛門の所に身を隠すが追われ、甲州・竹居安五郎宅に身を寄せる。
信濃屋喜兵衛不在の間、瀬戸の水野吉五郎と内津妙見で縄張り争いをする。犬山大五郎が先陣をきるが勝敗つかず、伊勢常、北熊実左衛門、直吉の吉五郎三人衆が対峙する。
- 安政5年頃、再び関小左衛門の所にいたが、前野村に戻る。
- 兄弟分には岐阜の水野弥太郎、関の遠藤小左衛門、長野の間之川又五郎らがいた。水野弥太郎とは血縁あり。
- 美濃洲原神社にある奉納額に尾州前野・信濃屋喜兵衛とある。
- 保下田久六に殺された一宮久左衛門と同一人物、もしくは信濃屋喜兵衛がモデルになったという説もある。
- 明治14年旧7月22日没。行年79歳。墓所は愛知県江南市前野の共同墓地。
- 墓左側面に発起人近藤実左衛門、信濃屋内輪中明治31年旧7月22日建之とある。菩提寺の過去帳には9月14日(旧7月21日)とある。
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