稲川聖城
稲川聖城(いながわ せいじょう 旧渡世名:稲川裕芳、稲川芳邑 本名:稲川角二(いながわ かくじ) 1914年11月13日-2007年12月22日)は日本のヤクザ。指定暴力団・稲川会初代会長。総裁。
略歴
- 1914年11月13日、横浜市西区浅間町に生まれる。
- 1933年頃、同町で柔道教室を催する吉岡日露史の門弟だった。
- 同年、神奈川県鎌倉郡片瀬町(後の藤沢市片瀬)を本拠とする堀井一家三代目総長・加藤伝兵衛の下で修行に入る。ここで生涯の兄貴分となる横山新次郎と出会った。
- 1935年、父親が福島県出身であった為、会津若松歩兵第29連隊に入隊。
- 1936年、二・二六事件に鎮圧軍側の一人として出動。
- 1941年、綱島一家(五代目総長・鶴岡政治郎)の代貸になる。
- 1948年、静岡県熱海市で戦勝国となった不良達が横暴を極めた際、熱海を縄張りとしていた老舗博徒・山崎屋一家の要請を受けた鶴岡政治郎の命により、熱海入りし不良達を制圧した。
自らの組を結成
- 1949年、山崎屋一家総長・石井秀次郎の引退に伴い、その跡目を継承。
山崎屋一家五代目を継承と同時に「稲川組」を結成。
横浜の愚連隊だった出口辰夫(通称・モロッコの辰)、井上喜人、吉水金吾、林喜一郎(後の錦政会理事長、稲川一家会長代行、稲川会会長補佐)を若衆とし(四天王と呼ばれた)、一気に勢力を拡大した。
- 後に、稲川組を主体として、東海道地方の鶴岡政治郎系の一家を集め、鶴岡政治郎に因み「鶴政会」を結成。
- 1963年、政治結社・錦政会を結成。
しかし、第一次頂上作戦の影響によって2年後には解散することとなった。
- 1965年、稲川組を稲川一家に改称。
- 1972年、組織名を「稲川会」に改めた。
これを記念して「稲川同士会の唄」と現在の「稲穂の代紋」が製作された。
- 1984年、四代目山口組組長・竹中正久の後見人を務めた。
- 1985年、稲川会会長を横須賀一家五代目総長・石井隆匡に譲り、自身は稲川会総裁に就任した。
- 1989年、五代目山口組組長・渡辺芳則の後見人を務めた。
晩年
- 2006年7月19日、稲川会の四代目跡目争いの中、孫である稲川英希の襲名式には参加せず、角田吉男の四代目襲名式に出席し、稲川会の分裂を防いだ。
- 2007年12月22日午後4時10分、肺炎により東京都内の病院で死去。93歳没。
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