向後 平
向後 平(こうご たいら、1916年 - )はヤクザ、博徒。向後初代。二代目住吉一家客分の高木康太(関根組組長・関根 賢と盃五分)率いた芝浦高木組代貸である阿部重作一門の筆頭級若者。沖労士東京芝浦荒井組出身。三代目住吉一家大幹部。大日本興行初代高橋輝男の兄貴分である浦上信之(銀座警察署長)とは同年代で、後に住吉会総裁になる西口茂男の親分でもあり、住吉会最高顧問・浜本政吉(赤坂の天皇)の兄貴分でもある。
略歴
- 1916年(大正5年)、愛知県名古屋で生まれた。
- 1932年(昭和7年)、地元学校を卒業し東京芝にある沖労士荒井組に入る。ここでの修行で後の住吉会最高顧問浜本政吉と出会い舎弟にした。
- 1939年(昭和14年)、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、日本では太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前に阿部重作から盃を受けた。
- 1949年(昭和24年)、向後は阿部重作の東京芝浦事務所の責任者から高円寺へ住まいを移し、その後は山手線~中央線沿線の新宿、八王子、埼玉の大宮まで手を伸ばし勢力拡大をしていった。「もっともヤクザらしいヤクザ」と言われ、昔ながらの力でのし上がるヤクザであった。阿部重作の本流に位置し、阿部の跡目を担う最有力な立場でもあった。
- 1956年(昭和31年)3月6日午後14時ごろ、三代目住吉一家大日本興行高橋輝男(34歳)らが台東区北清島町72の妙清寺で、大日本興行幹部の箭内武治?の葬儀を執行中、同じく住吉一家の向後平(40歳)が子分数名とともに自動車で乗りつけ焼香台に上がった。そしていきなり正面に座っていた高橋とその子分の同社専務桑原優?(29歳)ら参列者側に向け拳銃を乱射した。このため高橋側も拳銃を持ち出して応戦、その距離たった七尺(約2メートル)の至近距離で全弾発射する壮絶な撃ち合いとなった。高橋は心臓部に1発、桑原は下腹部などに5発、向後は下腹に数発の銃弾を受け.高橋、桑原は文京区駒込千駄木町の日本医大付属病院に、向後は台東区浅草雷門鈴木外科に収容されたが3人とも収容先の病院で死亡が確認された。
この間、葬儀に参列していた芝浦高木組・泉海陸作業会社社長でもあり三代目住吉一家総長阿部重作(60歳)は、乱闘を止めようとして右中指を撃たれ指を切断、全治1ヶ月の負傷をした。
住吉一家の筋内である大日本興行の告別式の席上において、同一家の幹部同士が二派に分かれて激しい銃撃戦を演じた。しかも相果てた向後平と高橋輝男は、ともに同一家の大幹部で、制止しようとして傷を負った阿部重作は、言うまでもなく住吉一家の三代目総長である。
当時を知るある親分によれば、告別式が終わり、後片付けをしていた時に突然起こった事で、何がなんだか分からないうちパーンと銃撃戦が始まったという。わずか数分間ほどの出来事で、阿部総長の他にやはり止めに入った某親分も頭を銃把で打たれて軽いケガをした。
- 逸話話しとして、当時の不良グループや愚連隊は、向後 平に狙われたら腹をガス抜きで一文字に裂かれ、簀巻きにされ芝浦の海深くに沈められてしまう、と伝えられていた。覚悟を決めての決戦か、降参するかのどちらかを選ばねばならなかったようである。
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